「聴覚障害者」への負のイメージをなくしたい。心の声に耳を傾け、たどり着いた夢。

聴覚障害のある両親のもとで生まれ育ち、幼少期は日本語より、手話を使っていた尾中さん。周りからの目を気にする癖がついていて、常に優等生で在ろうとし、大企業に就職して「一流サラリーマン」の肩書きを手にします。しかし入社してすぐ退職し、会社とNPOを同時に立ち上げることに。その背景にあった思いとは?お話を伺いました。

尾中 友哉

おなか ともや|株式会社Silent Voice 代表・NPO法人Silent Voice 理事
滋賀大学企業経営学科卒業後、株式会社アサツーディ・ケイ(現ADKグループ)に入社。2016年、株式会社Silent Voiceを立ち上げ、企業向けに無言語コミュニケーション研修プログラム「DENSHIN」を展開。2017年にはNPO法人Silent Voiceを立ち上げ、難聴児向けの総合学習塾「デフアカデミー」を開校。

家庭で自然と身につけた能力


滋賀県大津市に生まれました。両親ともほとんど耳が聞こえませんでした。会話は全て手話だったので、テレビなどを通じて覚えた日本語の語彙よりも手話の語彙の方が圧倒的に多かったです。

幼稚園に入って手話で先生や友達に話しかけると、全く通じませんでした。いきなり手を振り出すものだから、友達から「魔法使いだ!」と言われて逃げられたりしましたね。しかし、日本語がほとんどわからないので「魔法使い」という言葉の意味すらわかりませんでした。

そういう状態だったので、友達が何を言っているのか理解するのも難しかったです。例えば一緒に遊ぶ時、ルールの説明をしてもらってもわからないんです。僕が眉間にシワを寄せて「ん?どういう意味?」という顔をしていると、友達は残念な顔をしてぱーっと離れていきました。それがすごく悲しくて、自ら周りと壁を作り、自分から積極的に人と関われなくなってしまいました。

小学校に上がると、耳が聞こえない両親のために、手話で通訳をするようになりました。例えば、電話がかかってきた時や、親戚のお葬式など家族で一緒にどこかに行った時です。ただ言葉を変換するだけでは「なぜ、相手はこの話をしているのか」が伝わらず話が噛み合わないので、相手がどんな背景で喋っているのかまで汲み取って伝えるようになりました。日常的にトレーニングを積むうちに、どんどん大人が何を考えているのかわかるようになりましたね。

小学校では、多少日本語がおぼつかないところもありましたが、友達はフラットに接してくれました。お陰でコミュニケーションへの恐怖心は薄れていきましたね。また、通訳の中で培った相手の気持ちや立場を考える能力が役に立ち、みんなの意見のまとめ役として頼られるようになりました。大人が自分に何をしてほしいのかなんとなくわかったので、期待通りの行動を取ることで、先生たちにも気に入られていたと思います。

自分の心の声を見失う


中学生になっても周りの人たちの考えに敏感に反応し、優等生であろうとしました。勉強やスポーツテストで良い成績を残せる自分に満足していました。

ただ、周りと比較して優秀であらねばという気持ちが強すぎて、両親をどこか下に見るようになりました。母が数学の公式をパッと思い出せなかっただけでも「あの子のお母さんは塾で先生をやってるのに、どうしてお母さんは公式が分からないの?」と怒ったりもしましたね。優等生であることに執着し、本当の姿の自分や相手が見えなくなっていました。

一応の勉強した甲斐というか、地域で一番偏差値の高い高校に入学できました。全国的に見てもそこそこの学校だったので鼻高々でしたね。部活は、高校から始める人が多く、活躍できる可能性が高そうなラグビー部に入りました。

最初は勉強に部活にと頑張る気満々でしたが、次第に勉強についていけなくなりました。これまでは授業中に集中すればなんとかなりましたが、予習復習をしなければ良い点数が取れなくなってきたのです。定期テストの順位はどんどん下がっていきました。ほとんど勉強しなくなり、授業をサボったり学校を休んだりするようになりましたね。

さらに勉強だけでなく、部活でも思ったような成績を残せなくなりました。周りからの期待や監督の意図を人よりも過度に感じ、気にしながら試合に臨むので、変に力が入ったり、緊張したりで大事な場面で固まってしまうんです。全てのプレーで「期待通りに動かなければ」と考えてしまい、息苦しさを感じていました。

勉強も部活もうまくいかず、これまで築いてきた優秀な生徒像が保てなくなり、自己肯定感がすごく下がりました。そこでようやく、人の声を聞きすぎて、自分が本来何がしたいのか分からなくなっていることに気がつきました。

少しづつ「自分の声」を聞くように


高校3年生になっても成績は悪く、周りの友人が行くような有名国立大学には届かず、家から通える国立大学へ行くことにしました。大学では何か自分の情熱をぶつけられるものを見つけたいと、スポーツのサークルを立ち上げるなど精力的に活動しました。

2回生の時、とある授業で映像作りをしました。自分が撮りたいものを決めて、1本の映像作品を作り、発表する授業です。最初は適当に取り組んでいたのですが、作っているうちに「このシーンを入れると見ている人はどう考えるんだろう」と考え出して止まらなくなって、気がついたら生まれて初めて徹夜をしていました。自分が表現したいものを追求するのが楽しかったんです。これまでずっとやっていた、人の望む形を探す考え方とは全く違って新鮮でしたね。

情熱を注いだ作品を完成させ、自信満々で迎えた発表の日。映像を流しながら鑑賞する人の表情を見ていました。すると、全然僕が想像したリアクションを取ってくれないんですよね。絶対に笑うだろと思って作ったシーンで誰も笑わない。人の気持ちを動かすのは難しいと思い知り、同時に、難しいからこそチャレンジしがいのある領域だと思ったんです。

その授業をきっかけに、映像制作以外にも、学内のチラシや新聞を作ったりと、自分の作るものを通して人に何か伝える活動に携わるようになりました。いくらでも努力でき、ずっとワクワクしていましたね。

三回生になると、周りの友人と同じように就活し、5社ほどは内定をもらいました。その中から、自分の作ったものを通して人に何かを伝える仕事がしたいと思い、広告代理店に入りました。自分視点でも他人視点でも良い結果だったのではないかと、失っていた自己肯定感を少し取り戻すことができました。

自分の内なる声に気が付いた


入社してすぐ、予算が数億円規模の大きなプロジェクトに携わりました。学生の時より規模が大きい分、もっと夢中になれると思っていました。しかし、やってみる自分が携われるのはプロモーション企画のほんの一部。一から自分で作ってお客さんのリアクションを見ていた時ほどのワクワク感がありませんでした。期待していた働き方ではなく、なんとなく違和感を覚えるようになりましたね。

激務で毎日のようにクライアントや制作チームで飲み会があり、いつも2日酔いだか3日酔いだかわからない状態で仕事をしていました。だんだんと、なぜこんな大変な思いをしてこの仕事をやっているんだっけ、とわからなくなってしまいました。

優等生で在ろうとしていた中高生の頃と同じように、世間から見た「一流サラリーマン」に憧れてこの会社を選んだだけだったと気がつきました。それからは、回ってくる仕事をただこなすだけの毎日で、会社や自分の人生の時間に対して申し訳なさが募っていくのを感じていました。

入社して1年近く経った頃、たまたまとある有名なお団子屋さんに買い物に寄りました。いつも長蛇の列ができるお店で、その日も大勢が並んでいました。列の最後尾に並んで15分ほど経った時、流れが詰まり前に進まなくなったんです。気になって前の方に行ってみると、一番前のお客さんが聴覚障害者の方でした。

店員さんは大きな声で、お団子の包装をどうしたいか聞いていたのですが、お客さんは全く理解できていませんでした。思わず前に出て、店員さんとお客さんの間に入って手話で通訳しました。結果、無事にトラブルを解消できたんです。

よかったなと思って列に並び直そうとすると、その聴覚障害者の方が僕のほうに来て、お団子を一つ分けてくれました。その時、仕事では経験したことのないほど気持ちが動き、うれしいやら感動したやらで鳥肌が立ってしまいました。なんで自分は生きているのか、一筋の光が見えた気がしました。

父のような人のサポートがしたい


迷いながら仕事を続ける中で、実家に帰る機会がありました。ふと両親に「耳が聞こえるようになりたい?」と聞いてみると、母は「聞こえるようにならなくてもいい」と答えました。母は数年前から喫茶店を始めていて「耳が聞こえないから、今のお客さんたちに出会えた」と言うのです。また「耳が聞こえないからお父さんとも出会えたから」と言いました。

一方で父は、僕の質問にかぶせ気味で「そりゃ聞こえるようになりたいに決まってるやろ。耳が聞こえないから、こんな人生になったんだから」と言いました。

二人とも同じ聴力でしたが、考え方がここまで違うのかと衝撃を受けました。それと同時に、父みたいな人が自己肯定感を持って生きられる手助けができないかと思うようになりました。それができれば、日本中の耳が聞こえなくて辛い思いをしている人を手助けできるかもしれないと思ったのです。

そこで、「手話」や「聴覚障害」といったキーワードで会社を検索し、転職するつもりでその会社の人に会いに行きました。しかし、何社も見る中で、どの会社も「聴覚障害者がなるべく不自由なく暮らすためのサポート」に主眼を置いていることに気がつきました。それでは、いつまでたってもサービスを受ける側は弱いまま。父のような人の自己肯定感は上がらず、聴覚障害のある人生の捉え方は変わらないままです。その事実に歯がゆさを感じ「誰も取り組んでないなら自分で始めるしかない」と思い、起業を決意しました。

サービスの構想を練る中で、こだわったのは聴覚障害の人だからこそ持っている価値を発揮できる事業にすること。それができれば、聴覚障害のある人たちが自分の人生をポジティブに捉え、活き活き働けると思ったんです。

では、聴覚障害のある人たちの強みとはなんなのか。考える中で、コミュニケーションに対する諦めない姿勢なんじゃないかと思いました。重度難聴のある人たちは、普段から相手の声が聞こえず、見える情報に頼るしかありません。たとえ手話が通じない相手でも、口の開き方で言葉を読み取ったり、身振り手振りで意図を伝えたり、その場の状況から推測したりして、諦めずにコミュニケーションを取ろうとするのです。

その姿勢こそ価値であり、耳が聞こえる人同士でも起こっているコミュニケーション不全の問題を解決する一つの答えになるのではと思いました。

「聴覚障害者」の活躍の場を増やしたい


現在は、聴覚障害のある人たちが活躍できる環境づくりを行う株式会社の代表と、その土台となる教育の選択肢を増やすNPO法人の理事を務めています。

最初に立ち上げた株式会社Silent Voiceでは、体験型コミュニケーション研修を考案しました。言葉を使わない「無言語コミュニケーション」を体験することで、自分と異なる他者と分かり合うために何が必要かを、お客様や社員同士といった職場で活かせるように伝えています。この研修事業において、講師である聴覚障害者の諦めないコミュニケーション能力が発揮される仕組みになっています。

研修を展開する中で、聴者と聴覚障害者が共に働くために必要なノウハウを蓄積することができ、最近は聴覚障害者を雇用する企業向けのコンサルティング事業も行なっています。聴覚障害者は特にIT化によって情報が得やすくなりましたが、それでも聴者と聴覚障害者のコミュニケーションの壁は厚く、なかなか活躍が生まれにくい状況があります。相互にどんな困り事があるのか、原因はなにか、どのような工夫があるのかを、その企業の聴者と聴覚障害者と共に考え、歩み寄りからその壁を取り払い、聴覚障害者と共に働く仲間の仕事のパフォーマンスを上げるお手伝いをしています。

多くの聴覚障害者の働く現場を見る中で、聴覚障害のある子どもたちの教育課題も強く感じました。全く音の聞こえない子どもにアルファベットを教えるために「ABCの歌」を聞かせても、AからZまでランダムな記号の配列を覚えられるわけがありません。そういった中で自信がなくなり、頼れる友人も居らず、塾でも先生の声の指導は聞こえず、という状況で過ごしている子どもたちを多く見てきました。

そんな子たちが今の教育体制のままで社会で活躍することは無理があると思い、少しでも状況を改善させたい思いからNPO法人Silent Voiceを立ち上げ、難聴児専門の総合学習塾「デフアカデミー」を運営しています。その中で例えば、アルファベットをアメリカ手話の指文字で「A・B・C…」と見せながら教えれば、覚えやすいなどの発見も出てきました。

これらの事業を通して、聴覚障害のある人とそうでない人たちが、フラットに互いの価値を交換し合える社会を作りたいと思っています。いつの日か「障害者」という言葉に負のレッテル感をなくしたいですね。または別の言葉で置き換わっていくといいなと思います。「あの人は〇〇ができない…」ということから始まる会話って、なんか夢がないなぁと思うんですよね。

フラットに互いの価値を交換しあえる社会の象徴として、あと3年ほど経ったら、聴覚障害のある社員に社長を譲りたいと思っています。

その時には私は、最近ハマっているインドカレーづくりについて勉強したり、手話言語を残すためのコンテンツ作りをしたいと思っています。「こうあるべき」に捉われず、自分自身が何をやりたいのか心の声に従って、これからの人生も歩んでいきたいです。

2019.12.09

インタビュー・編集 | 種石 光
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