大好きな尾鷲を繋いでいくために。
ニュースメーカーとして楽しく課題解決を。

三重県尾鷲市で生まれ育った伊東さん。町の人口1万8千人に対し、年間20万人を集める観光施設を運営しています。17歳のとき「何者かになりたい」と強く願った伊東さんが下した決断とは。そして見つけた、地元で自分がすべきこととは。お話を伺いました。

伊東将志

いとう まさし|夢古道おわせ支配人
三重県尾鷲市出身。日帰りのお風呂とランチバイキングが楽しめる「夢古道おわせ」支配人。尾鷲商工会議所で経営指導員を務めたのち、同施設の立ち上げから関わる。尾鷲ヒノキの活用のために企画した「100のありがとう風呂」は、2015年のグッドデザイン賞を受賞。全国500店舗を超える温浴施設が導入している。

ここは日本で一番いい町だ


三重県尾鷲市の港町で生まれました。両親と弟の4人家族です。母は10人きょうだいで、きょうだいのうち8人は尾鷲に住んでいました。そのため小さい頃から、町のどこへ行っても親族がいるような状態でしたね。しかも母は美容室を営んでいたので、家は親族の格好の溜まり場でした。

例えば彼女ができてデートをしていても、絶対に親族の誰かが見ていて、すぐに噂になるんです。そんな距離の近さが鬱陶しくもありましたが、嫌いではありませんでした。美容室に集まる叔母さんたちの家庭の話は、その時ごとに浮き沈みが感じられて人生のいろいろな面を見せてもらっている感じがしましたし、風邪を引いたり怪我をしたりした時は、みんなが心配してお見舞いに来てくれました。僕は特に取り柄のない普通の子でしたが、愛されていることを感じていました。

それから母も、地元が大好きな人でした。尾鷲から一歩も出たことがないのに「ここは日本で一番いい町だ」と言うんです。根拠はないんですよ。でも、そう言えるのはすごく幸せなことだなと思っていました。

何者かになるために


地元の小中学校を卒業し、地元の高校の商業科に進みました。勉強や運動が飛び抜けてできるわけではなかったので、みんなと同じ普通科に行ったら活躍できないかもしれないけれど、商業科なら一番になれるかもしれないと思ったんです。女の子が多いという打算もありましたけどね(笑)。高校生活は楽しく、サッカーをして、毎日友達といろいろな話をしました。

17歳になると、みんな少しずつ将来を考えるようになりました。尾鷲には近くに大学がなく、ここを出て行くかここに残るか決めなければならないのです。冬の寒い夜、海の見える堤防に温かい缶コーヒーを持って集まって、灯台を見ながら「これからどうする?」と話をしました。すでに、ここを出て行くと決めている友達がほとんどでした。その中の一人が「こんな田舎にいられるか」と話すのを聞いていて、僕は同じようには思えないと気がつきました。なんだかんだ、地元が好きだったんですよね。

突出した能力はありませんでしたが、僕には小さい頃から「何者かになりたい」と思っていました。どうせ社会に出て行くなら、何かを成し遂げるような人になりたいと思っていたんです。どうやったらそれになれるのかわからず、これから自分はどうするべきか、真剣に悩みました。

悩みすぎて自分の頭の中だけで考えられなくなり、小説を書くことにしました。ちょうど大手出版社が主催する新人賞の募集があったんですよね。テーマは「就活」。この町に残る人はどんな選択をして、ここで生きていくことを決めたのか。ここを出て行った人は、何を考えて外の世界を目指したのか。周囲の人を観察して、そんなことをひたすら考えました。勉強もせず原稿用紙100枚の作品を仕上げ、出版社に送りました。結果として箸にも棒にもかかりませんでしたが、書いたことで頭の中が整理されました。

何者かになりたいけれど、自分は勉強ができるわけでもないし、スポーツができるわけでもない。小説を書いてみても、隠れた才能が見つかるわけでもなかった。みんなと同じ道を選んでもダメだろうと思ったんです。だったら、みんなと同じように外へ出て行くよりも、地元に残った方がレアケースになれるんじゃないかと思いました。それにやっぱり、地元が好きだったんですよね。ここに残り、この町を良くしていこう。地元で生きていこうと決めました。

そこで、進路担当の先生に「絶対に転勤のない仕事ってありますか」と聞いたんです。すると「商工会議所がいいんじゃない?」と勧められました。二つ返事で、尾鷲の商工会議所に就職することを決めました。

ようやくドラマが始まった


商工会議所では、地元の中小企業の皆さんの経営を支援しました。中でも税務担当になり、いろいろなお店や会社の確定申告書を書くお手伝いをしていましたね。総会の準備をしたり、会議資料を作ったりと雑務もたくさんこなしました。向き合う人に感謝され、やりがいはあったものの、これが本当に「町のため」になっているのかはわからず、ずっとモヤモヤしていました。何者かになるためにここに残ったはずなのに、いつまでもその機会は訪れない。自分のドラマはいつ始まるんだろうとぼんやりと思っていました。

そんな状態で10年が経ちました。28歳になった頃、古来から信仰されていた熊野三山へ通じる熊野古道が世界遺産登録されるという知らせが飛び込んできたんです。尾鷲にも一部熊野古道が通っており、この期に世界遺産登録を記念して新しい施設を作ろうという話が出ました。

しかし、いざ話し合ってみると施設の建設に対しては否定的な意見ばかり。町の振興のための事業は全国的にみても経済的にうまく行かない例が多いとか、建設予定地は倒産した観光ホテルが建っていた場所だからうまく行かないとか、ダメだダメだという声が大きかったんです。

しかし、そんな声を聞けば聞くほどやりたくなってくるのが僕の性分。むしろ「これだ」と思いました。みんなが行かない道は、僕が行くべき道だからです。高校生の時と同じようにそう思い、自分で責任者に立候補しました。平凡な毎日の中に現れた大きな変化。成功してもたとえ失敗しても、このチャレンジはドラマになる。ようやく待ち続けた舞台に上ることができると思ったんです。

建設するのは、古民家を改修したランチバイキングとお土産の販売をする施設と、温泉施設と決まりました。ところが、責任者になって実際に施設を造ろうとすると、全然商売を知らないことに気がついたんです。これまでやっていたのは経営指導で、自分でものを売る経験をしたことがなかったんですよね。加えてずっと実家暮らして、皿洗いすらまともにできない。自分の無力さを思い知り、これまで勉強してこなかったことに落ち込みました。

しかし、落ち込み続けたある日、ふと「そうだ聞けばいいんだ」と思いついたんです。わからないんだから聞くしかないと、すでに温泉施設をやっている人の所に行ってどんどん話を聞きました。初めてまともに勉強した感覚でしたね。スポンジのごとく、見るもの聞くもの全てを吸収しました。

そうしてようやく迎えたオープンの日。お風呂のオープン時には、式典を開いて地域に伝わるお神楽を披露してもらいました。一緒に遊んだ同級生が太鼓や笛を演奏してくれるのを聞くと、子どもの頃が思い出されて涙が溢れました。この町のためにと地元に残って、ようやく舞台に上がることができた。ようやくドラマが始まったと感じました。

それで、尾鷲はどうなったんだ?


施設は、オープン当初こそバタバタしましたが、運営が安定してからは軌道に乗りました。いろいろな方に助けていただくことで、大勢のお客さんが来て、売上も上がるようになっていったんです。周囲からダメだと言われた事業を成功させて、マスコミにもたくさん取り上げられて、「これはいいぞ」と自分でも思っていました。少し天狗になっていたんです。

そんなある日、夜のスナックで地元の先輩に会いました。呼び止められ、「テレビで見たぞ、頑張ってるな」と声をかけられたんです。相手は完全に酔っ払っていましたが、僕は地域活性化やまちづくりについて、尾鷲に貢献したいという自分の思いを流暢に話しました。するとそれを聞き終えた先輩が一言、「で、どうなったんだ?」と言ったんです。店にお客さんが来ているのはわかる。ところで、その結果尾鷲はどうなったんだ、と。

「うわ」と思いました。気にしてなかったんです。人口減少や高齢化の進行、尾鷲が抱えている解決しなければならないたくさんの課題を、すっかり忘れてしまっていました。日々、施設を回すことしか考えていなかったんです。先輩の問いに対して、何も答えられませんでした。

家に帰り、このままじゃダメだ、ただ人を集め売上を上げるだけだと意味がないと思いました。僕がやりたかったのはこういうことじゃない。売上を上げるためじゃなく、この町のためになるかどうかを考えなければならない。目が覚めました。

「グッドニュース」の大切さ


とはいえ、具体的に何をすればいいかわからずにいたある日、施設によく来てくれていた製材場の事務員の人から、相談を受けました。「この2、3日、働いている工場から音が聞こえない」と言うんです。

尾鷲はヒノキの産地として知られ、古くから林業が盛んな地域でした。しかし徐々に製材の仕事もなくなり、経営が苦しくなっていたのです。その人は、「事務員だから給料をもらっているけど、仕事がないのはわかっている。自分達にも何かできることがないだろうか」と悩んでいました。その気持ちがすごくいいなと思い、すぐに何か協力しようと話し合いました。施設の一角に、製材時にでた木片売り場を作って、1つ100円くらいで値付けして売ろうと決まり、すぐに売り場を作りました。

しかしその夜改めて考えてみると、それでは根本的な課題解決になっていないことに気がつきました。100円の木片じゃ、100個売れても1万円にしかならないからです。なんとかしたいと思い、次の日「もっとお話を聞かせてください」とその人に会いに行きました。

聞いていくと、根本的な問題は木材の需要が減っていること、さらに深く掘ると、生活の中で木に触れる機会が少なくなっていることにありました。木に触れる機会を作ることならできるのではないかと思い、工場内に転がっているものをいろいろ持ってきてもらいました。その中で、木の皮をはいでツルツルに加工した大丸太が目に止まったんです。「これをお風呂に浮かべよう」と閃きました。入浴にきたお客さんも喜ぶし、尾鷲ヒノキに触ったり匂いをかいだりして身近に感じてもらうことができると思ったのです。

実際に約1.5メートルの大丸太を風呂に入れてもらうと、お客さんは喜んで、木を通じて笑顔になってくれました。僕もとても満足して、地方新聞社に「ニュースになりませんかね?」と話を持って行ったんです。そしたらこんなの見たことないと、取材に来てもらえました。それが掲載されると、全国紙も取材してくれました。「これはただの地域ネタではなく、社会的に意義のあるネタだから」と。

さらに、全国のお風呂やさんからも、「うちでもやりたい、ヒノキはどこで買えるんだ」と問い合わせがあったんです。当然まだ商品になっていませんから、製材場と話し合って一番売れ行きに困っている細いヒノキを、メッセージを書き込めるように円形の入浴剤にして販売することに決めました。そのメッセージウッドに感謝の気持ちを書いてお風呂に浮かべる「100のありがとう風呂」という企画をしたところ、これもまた全国ニュースになりました。

この体験を通して、僕がやらなきゃいけないのはこういうことなんだと気がつきました。ただのお風呂屋のお兄ちゃんじゃなくて、もう一歩踏み込み、地域の人が困っていることに価値を見出して、それを演出してニュースにすることが大事なのだと。多くの人に尾鷲を知ってもらえましたし、やっていて楽しかった。尾鷲に残った意味を感じられたんですよね。地元の課題解決や地域の子どもたちの愛着の醸成、そして事業者の売上にも繋がるような「グッドニュース」を作っていこうと思いました。

町を次代へ繋ぐニュースメーカーに


今も、地元・尾鷲でお風呂屋さんをしています。立場としては、「夢古道おわせ」の支配人です。全国で尾鷲での取り組みをお話しすることも増えました。少子化や高齢化など、地方の課題感はどこも同じです。しかし、尾鷲の方が大変な状況にある。だからこそ、僕がここで取り組んだことは、良いことも悪いことも全部、他の地方とシェアできると思っています。自分の街をなんとかしようと思っている人たち、郷土愛を持ってまちづくりに取り組んでいる人たちに、一人でも多くの事例を渡すことが、僕のやるべきことかなと思っています。

そのためにも、多くの人に関わってもらいながら課題解決のためのプロジェクトに取り組んでいきたいですね。尾鷲からニュースを発信し続ける、ニュースメーカーでありたいと思っています。

悩んでいた17歳の自分に、今なら地元に残ったことは「正解」だと言えます。でももう、何者かになろうとは思っていません。まちづくりに携わる中で、「町は今日完成するものではない」と気が付いたからです。

町は、自分が生まれるずっと前から続いてきて、これからも続いていく。それを考えると、今自分がやっていることはたかが知れているんですよね。だから自分は、何かを成し遂げたヤツではない。だけど、何かをやろうとしてるヤツであることは間違いないと思っています。

長い歴史の中で考えると、人口がどうとか、景気がどうとかいうよりは、今日も魚が美味しいとか、空気が澄んでいるとか、この町そのものが素敵だよと言えることが大事なんじゃないかなと思うんです。だから、そういうものを大事にしながら、この町の困っていることにアプローチしていく。自分自身が楽しみながら、グッドニュースを作り続けていきたいと思います。

2019.10.24

インタビュー・ライディング | 粟村千愛
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