大切なのは、成功ではなく幸せであること。絶望の先の出会いから見つけた幸せになる方法。

フリーライターとして様々な書籍や記事の執筆を手がける上阪さん。故郷を出て、華々しい成功を求めて転職を繰り返しますが、うまく行かずどん底へ。何もかも失う中、目の前の仕事に真摯に向き合い見つけた、人生で本当に大切なものとは。お話を伺いました。

上阪 徹

うえさか とおる|フリーライター・ブックライター
早稲田大学商学部卒業。アパレルメーカー、リクルートグループなどを経て、フリーライターに。雑誌や書籍で幅広く執筆やインタビューを手がける。近年は、講演活動の他「上阪徹のブックライター塾」を開講。「人が幸せになるお手伝い」を仕事のテーマにしている。

敷かれたレールは歩まない


兵庫県豊岡市の農家に生まれ育ちました。田んぼや畑がいっぱいある風光明媚な地域です。2人の姉を持つ末っ子長男で、父には小さい頃から農家を継ぐように言われて育ちました。

父は厳格でしたが、賢く、いつも働いていて、誰とでもフラットにコミュニケーションが取れる人でした。地位や見てくれは全く気にせず、いろんな人と関わり、困ったことがあれば助けていました。そんな父の口癖は「誰のために生きているのか」。父は三男ですが、長男が家を出てしまった影響で自分の夢を捨てて実家に戻り、農家を継いだそうです。自分ではなく、家族や周囲の人のために生きている人でした。だからこそ、長男である僕に農家を継いでほしいという想いが大きかったようです。

そんな父を尊敬していたし、地元は大好きだったものの、敷かれたレールを歩むことには抵抗がありました。外に出たいと思い続けていたんです。「こうしなくちゃいけない」と運命を定められていることが辛くて、なんとかここから抜け出せないかと苦しんで、もがいていました。

地元の小中学校を卒業したのち、高校は進学校へ進み、バスケットボールとバンド活動に明け暮れ、充実した毎日を過ごしました。一方で、外に出たいという気持ちは募っていったので、大学進学を目指すことにしたんです。父の言葉に縛られていたからこそ、鬱屈した気持ちを大きなパワーに変え、限られた時間の中で効率的に勉強しました。

進学は反対されましたが受験の意志は固く、合格して進んだ大学は、大事にしていた自分の楽器を売って受験費用を捻出したところでした。最終的には、父にもなんとか許しをもらいました。

地位と名誉を求めギラギラした20代


田舎の小さな世界からでてきた僕にとって、東京での生活はたくさんのことが初めてで刺激的でした。「いかに自分が何も知らなかったか」を実感しましたね。

大学1年生のとき、入るのが一番難しい会社はどこかと先輩に聞くと、大手広告代理店だと言われました。広告代理店そのものを全く知りませんでしたが、それがきっかけで広告業界に興味を持ちました。たまたまコマーシャルの制作を題材にした映画を観て面白いと感じ、将来は広告クリエイターとして働きたいと思うようになりました。

学生生活はバブル真っ只中。あまりに楽しすぎて学校にもろくに行かず、バンドとバイトとで遊んでばかり。あっと言う間に4年間が過ぎました。両親には卒業したら地元に帰ってきてほしいと言われていました。しかし、東京での生活が楽しく、実家に帰る気持ちにはとてもなれませんでした。

兵庫の田舎から東京の大学に入ったことや、鼻柱が強くて口も回ることで、戦っても負けない自負がありました。もっといろいろなことを知りたいという気持ちもあり、東京で就職することを決めました。

大手広告代理店にターゲットを絞り、就職活動を始めましたが、結果は惨敗。アルバイト時代の先輩に誘われたアパレルメーカーに内定をもらい、営業として働き始めました。

将来的には田舎に帰らなきゃいけないという気持ちは持っていました。だからこそ、いわゆる「社会的成功」や「結果」を早く求めていました。お金を稼ぎたい、有名になりたい、女の子にモテたい。地位や名誉を持って帰りたいと、めちゃめちゃギラギラしていました。

アパレルメーカーでは社会人としての基礎や礼儀を身に付けることができましたが、しばらく働くと今のままでは地元に持って帰れるものが何もないと感じ始めました。就職活動で叶わなかった広告クリエイターとして働く夢も諦められずにいました。社会的成功を求める気持ちと広告業界で働きたい気持ちが募っていた頃、偶然、新聞の求人欄で転職先を見つけました。

屈辱と絶望。転職を繰り返しどん底へ


大手人材会社の広告制作業務を請け負う新会社でした。入社してみると、「広告専門会社」という名前だけれど、制作できるのは求人の広告だけでした。

それでも、求人広告は応募者の数で良し悪しが目に見えてわかるので、面白さを感じました。大変な採用を成功に導けた時は、すごく喜んでもらえて幸せでしたね。逆に、良い広告ができなければ企業には人が来ません。自分が書く文章によって人が動く。大きな影響が広がる。書き手には慎重さ、謙虚さが求められるという大きな学びを得ました。

ただ、働き続けるには過酷な職場環境でした。裁量労働制で残業代が出ない。隣で親会社の社員が同じような仕事をしているのに、僕は手取りが半分くらい。これは、すごく辛かった。とにかく働かされてるように感じて納得感もありませんでした。制作者としてはそこそこできたけれど、5年働いても突き抜けた結果を出せなくて、悶々とするようになりました。リスクをとって転職したのに辛い状況になってしまい、親にも言えませんでしたね。

ちょうど開催されていたサッカーW杯の「ドーハの悲劇」を寮の部屋で見て、頭を抱える選手に自分を重ねました。何もかもうまく行かず、前途が見えない。「俺の人生どうなっちゃうんだろう」と絶望し、精神的に追い詰められていきました。

そんなとき、うちにこないか、と転職を誘われました。広告の世界を離れてベンチャーに再々就職したんです。しかし、3カ月で会社が倒産。どん底に落とされました。

地位も名誉も財産もなく、職まで失った。もう悲惨ですよ。ちょうど引っ越したばかりで貯蓄はゼロに近い状況でした。失業してやることがなく、何より「誰からも必要とされてない」ことが一番辛かった。仕事がない、所属するところがないってこういうことなんだと痛いほど知りました。

暑い夏でしたが、エアコンもかけずに窓を開け、住んでいる部屋のベランダでぼーっと空を眺める生活を1カ月ほど送りました。精神的にボロボロで、再転職する気力もありません。また失敗したらどうしようと、不安が先立っていました。

「自分のため」をやめた時、人生が変わった


前職では、失業後6カ月間はフリーで仕事を始めることができないルールでした。そんな中で前職の関係者が、アルバイトを紹介してくれました。前の職場では恥ずかしかろう、と求人情報誌の記事を制作する編集部でのアシスタント業務でした。仕事は、アンケートの封入作業など。

時給850円。ちょっと前までまがりなりにもクリエイターだったのに、袋詰めのアルバイトです。屈辱ですよね。でも、しょうがなかった。お金を稼ぐのってこんなに大変なんだと思い知りました。

それでも真面目に仕事をしていると、編集長から「フリーになったら一緒に仕事しようよ」と言ってもらえたんです。一緒に仕事をしたことは一度もないし、僕がやっていたのはアシスタント作業だけ。それでも、一生懸命やっているのを見てくれていて、声をかけてくれたんです。その時、「あ、こういうもんなのかな」と思いました。小さなことでも、一生懸命やっていれば見ていてくれる人はいるのだと。

アルバイトを始めて2カ月ほどして、フリーランスになりました。独立資金は、キャッシングで借りた20万円。パソコンやデスクも分割払いで買いました。前職の仕事に加え、アルバイトをしていた編集部からも仕事をいただき、広告のコピーライティングからインタビューや記事の制作まで、仕事を選ばずにとにかく受けていきました。

それまでの僕は、地位や名誉など「表面的な成功」ばかりを追いかけていました。言葉を変えれば、「自分が自分が」ばかり。自分のことしか考えていなかった。でも、仕事ができることのありがたさや、お金を稼ぐことの大変さを改めて知って、これからは心を入れ替えようと思いました。「自分のため」ではなく、「誰かのため」に働こうと決めたんです。

必要とされること、仕事をいただけることに感謝する。目の前の仕事をとにかく一生懸命にやる。自分のやりたいことは考えない。すると、人が人を、仕事が仕事を呼んで、紹介でどんどん仕事が続いていくようになりました。営業を一度もしなくても、まるで「わらしべ長者」のように、仕事が繋がれていきました。なにもかも失って自分のために働くのをやめた瞬間から、人生は一変したんです。

大事なのは成功ではなく「幸せ」


フリーで仕事を始めた頃は、バブル崩壊後の大不況。いただいたお仕事をしっかりやり遂げることに、とにかく必死でした。ある大手保険会社の広告の仕事を精一杯やっていたところ、「金融に詳しいらしい」と認識され、保険や証券、銀行など、金融関連の仕事を次々にいただけるようになりました。そのうち、大手広告代理店からも声がかかりました。

いただいたお仕事を必死で全うするうち、依頼される仕事のスケールがどんどん大きくなっていったんです。有名経営者や著名人へのインタビューの仕事も増えていきました。その後、大手広告代理店のクライアントが経営トップの本を作ることになり、「書いてみないか」と頼まれました。クライアントから紹介された出版社の編集者から次々と本の仕事が入るようになり、ブックライターとして本づくりをすることになりました。

週刊誌に連載した著名人のインタビューは支持を受け、後にその編集者が担当してくださって、まとめて本にもなりました。これがシリーズ40万部のヒットになりました。どうして読者から評価を受けたか、よく聞かれました。答えはシンプルで、インタビューを自分ごとに置き換えていたからです。「成功したこの人と、僕のひどい20代とは何が違ったんだろう」と。他の人の学びにもなると思いましたし、自分自身が心の底から知りたかった。「なぜ成功できたんですか?」と直球で聞いたりしていました。こちらの本気さと熱量が伝われば、相手も真剣に答えてくれるんです。

一方で人生の本質のようなものに気づいたのは、無名の人へのインタビューでした。会社員をやめて工場の片隅でアクセサリーの彫金をしている人で「会社員時代と比べて給料は3分の1になってしまったけれど、毎日すごく楽しくて充実している。仕事を通して人に喜んでもらえることが幸せだ」と話していました。いわゆる社会的成功を掴んでいるとは言えませんでした。でも、目はとてもキラキラしていました。

ちょうど翌日に、丸ノ内の大企業の部長にインタビューすることになっていました。社会的にはエリートでしょう。しかし、目は死んでいました。社会的成功を掴んだはずなのに、すごくつまらなそうでした。話も面白くなかったし、ちっとも幸せそうじゃなかった。

目がキラキラしてる人と目が死んでいる人と、どっちが幸せか? 前者ですよね。このとき、それまでもやもやと思っていたことがはっきり言語化できました。そうか、社会的成功と幸せは違うんだと。僕は20代で地位や名誉、お金などの社会的成功を求めていたわけですが、そんなものは幸せとはちっともイコールなんかではなかったんです。目指すべきなのは、成功などではなく、自分にとっての幸せなのではないか、と。もっといえば、幸せを決めるのは自分。すべては自分自身の中に答えがあるのだ、と。

ありがたいことに、書く仕事に加えて講演のお声がけなどもいただき始めていたので、そんな話もするようになりました。「社会的成功=幸せではない」「目指すべきは成功ではなく幸せ」「幸せは自分で決める」「幸せは案外、身近なところにある」…。

ある工業高校では、特別授業をさせてもらいました。進学校ではなく、工業高校です。もしかしたら、進学校に進めず、社会的成功は難しいのではないか、と考えている子どもたちもいるんじゃないかと思っていました。そこで、持論を語りました。

学校の成績や入社する会社は人生の「幸せ感」とは全く関係ないこと、自分の得意を認識し、それで世の中の役に立って生きていくことが大事だ。それがみんなの役割だし、幸せだと話しました。高校生たちは衝撃を受けたようでした。あとで感想文をもらったんですが、ある男子生徒が「人生で大切なのは成功することよりも、幸せになること 衝撃でした」と書いてくれていて。伝わったこと、響いたことが嬉しくて、この感想文は宝物になりました。

また、ある大学では、成功している人の共通項を話してくれと言われました。超有名大学に落ちてきている学生も多い、そんなことで人生は決まらないと語ってやってほしい、と。そこで話したのは、実はお金持ちは誰か、でした。実際、ベンツに乗っているのは中小企業の社長なんですよ。有名企業になんか入るより、自分で事業を作ってポルシェに乗れ、とハッパをかけました。世の中で言われている地位や肩書きなど、表面的な成功のイメージはかなぐり捨てた方がいい、と。講義の後、たくさんの学生が声をかけてくれました。うれしかった、と。中には涙ぐんでいる子もいた。実際、色々な成功の仕方、幸せのなり方があるんです。

では、幸せとは何か。著名な人も、そうでない人も、たくさんの人にたくさんの話を聞いて、だんだんわかっていったことがありました。それは、人に喜んでもらえること以上の喜びはない、ということです。大成功して巨額の資産を得ている起業家が、なぜ今も懸命に働き続けているのか。一生、遊んで暮らせるのに、そんなことはしないのはなぜなのか。それは、働くことこそ、誰かに喜んでもらえることこそ、最も幸せなことだからです。

その意味で、独立時の気づきが、いかに幸運だったかを思いました。自分がやりたいことをやるんじゃなく、周囲のためになること、人に喜んでもらうことをやろう。それは、極めて本質的な気づきだったんです。何かの役に立つのが仕事だと考えると、本当は仕事があるだけで幸せなんです。でも、そのことに、多くの人が気づけていない。自分は誰の役に立っているのか、誰を喜ばせる仕事をしているのか、しっかり意識し、強く自覚してみることです。それだけで、人生は大きく変わると思います。

実は、幸せになるのは簡単なんです。人に喜んでもらえることをすればいい。そうなるように自分を仕向ければいい。幸せであることを自分で理解すればいい。幸せそうな人と、そうでない人と、どちらにチャンスの女神は微笑むと思いますか。そのことに早くから気づいて実践してきた人たちは、仕事もうまくいき、成功するんです。

幸せに気付いた瞬間、うまくいく


現在はフリーライターとして、インタビューして記事を書いたり、ブックライティングや講演などの仕事に加え、ブックライティングのノウハウを伝える塾も開講しています。スキルを全部公開し、ライバルを増やしてバカなんじゃないかと言われることもありますが、これもお願いされ、必要とされているからやっていることです。

独立して25年になりますが、自分でこれをやりたい、と申し出た仕事は数えるほどしかありません。本の仕事もそうですし、著者になったこともそう。すべて、お願いされ、必要とされたことに応えてきただけ。ただただ、流されてきただけです。でも、だからこそ最も自分が必要とされている場所、自分の得意が活かせる場所に辿り着けたのだと思います。

それだけに、自分のスキルにしがみつく気持ちもまったくありません。また次のステージに行けばいい。これは自分の本でもカミングアウトしていますが、そもそも僕は本当は、書くことはまったく好きじゃないんですよ(笑)。

究極的にやりたいのは「人が幸せになるお手伝い」なのかな、と思っています。成功した人たち、幸せな人たちに何千人も会わせてもらったわけですから。幸せになる方法って誰も教えてくれないんですよね。

一方でたくさんの人を取材する中で気づいたのは、世の中に流布するものがいかに嘘っぱちか、適当か、いい加減かということです。「社会的な成功=幸せ」という考え方もそうですし、例えばライターは稼げないとか、休みがないとか、〆切りに追われ続けて大変だとか、そんなことばかり言われる。僕はずっとフリーライターですが、同級生の何倍もの稼ぎをずっと続けてくることができました。ドイツ車を乗り継いできましたし、土日は完全に休むし、ハワイに行ったらスイートルームに泊まります。嘘っぱちのイメージを壊したくて、SNSでは昼間っからビールを飲んだりしているところをわざと投稿したりしています。

世の中の嘘っぱちには気を付けなければなりません。これこれはこういうもの、という固定概念に縛り付けられることほど、ばからしいことはない。そういうことをいつも言っている人とは付き合わないほうがいい。実際、そんなことはないわけです。それこそ世の中全部が見えているわけではないわけですから。

自分はあくまで自分。裏付けのない思い込みに流されたりすることなく、自分にとっての幸せを考えていくことが重要です。まずは、なんだってできると思うこと。そのための努力を怠らないこと。そして、自分にとって何が幸せか定義することです。自分の幸せが定義できていない人は、永遠に幸せになれませんので。

でも、これをやってみると、自分がすでに幸せであることに気がつける人も多いと思っています。そもそも、日本という国に生まれた時点で、僕たちはもう90点をもらっているんです。衣食住に困ることはない、働く場所もある、夜中も出歩ける安全な国に生まれただけで、いかに幸せか。それを日本人はもっと認識していくべきだと思います。ないものを数えるのではなく、あるものを数えていくべきなんです。

僕自身も、毎日ビールが美味しく飲めることだけで幸せですから(笑)。日々のワクワクや、ささやかな幸せを大事にしていきたいなと思っています。

今後、どうなっていきたいという展望や目標は相変わらずありません。これまで通り、お願いされたら応えたいというだけです。そこに山があればただ登るだけ。でも、できるだけ大きな山に登らねば、という気持ちは常に持っています。大きな山に登ると、また違う山が見えるから。これは登ってみないと見えないんです。だからこれからも、目の前の山を登り続けます。

2019.09.11

インタビュー・編集 | 粟村 千愛
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