起業はあくまで環境づくり。
自分らしく力を発揮できる、小さな生息圏を。

変わり者と言われてきた学生時代。周囲に合わせることが苦手で、常に居心地の良い環境を探して動いていたという畑谷さん。「自分はこれで良いんだ」と思えるようになった出来事とは?そして、人が自分らしく力を発揮できる環境づくりにいたった背景とは。お話を伺いました。

畑谷 芳樹

はたや よしき|株式会社ビオトープ代表取締役
株式会社ビオトープ代表取締役、森と海株式会社代表取締役。起業やブランド開始時おける、事業支援を主にクリエイティブデザイン面から行う。自分も仲間も最大限に力を発揮できる居心地の良い環境をつくりたいという思いのもと、組織を運営。虎ノ門の場づくり、街づくりを行うグー・チョキ・パートナーズ株式会社や、日本酒と出汁料理の店「浅草おと」を運営する株式会社スワンブリッジパートナーズなど、複数の会社も共同経営している。2020年には、浅草の新しい溜まり場「ニュータマリバ」をOPEN予定。

居心地の良い環境を求めて


東京都武蔵野市で生まれ、日野市で育ちました。父は厳しく、メジャーな遊び道具だったファミコンや漫画、プラモデルは家で禁止されていました。友達の家に遊びに行けばファミコンもできたし漫画も読めましたが、自分の家にいる時間は遊べるものが少なく、やれることと言ったら兄とブロックを組み立てるか、父の洋楽のレコードを聴くか、自分で絵を描くくらいでしたね。

その代わり、遊び以外の興味のあることは何でもやらせてもらえました。小学校の部活はサッカーとバスケ、習い事はテニスと水泳、ボーイスカウト。小学校5年生の時には、英語塾に通い始めました。

小さい頃から父のレコードを聴いていたこともあり、自然とソウルやジャズ、ファンクを聴く音楽好きになっていました。地元の中学では、たまたま強烈に音楽の趣味が合う親友ができ、時間があれば一緒に渋谷のレコード店に入り浸り、好きなレコードを買っては聴いていましたね。聴いているだけでは飽き足らず、独学でベースも始めていました。

地元の公立高校に通いはじめると、学校のバンドの多くは流行っていたロックを中心に活動していました。自分のやりたい音楽ではないし、無理に学校ではやりたくないなと思っていました。ずいぶんと天邪鬼な性格でしたね(笑)。

音楽のスタイルが合う人を求め、次第にライブハウスやクラブに行くようになりました。そんな場所で出会うのは、だいたい10〜15歳くらい上の人たち。「なんでお前がこんなところにいるんだ?」「この曲は知っているか?」と高校生である自分を面白がってくれました。色々な人を紹介してもらい、バンドを組んでライブにも出るようになりました。

同級生からは、よくわからない年上の連中とバンドを組んで、よくわからない音楽をやっている「変わり者」と言われていましたね。でも、自分にとっては学校以外の場所の方が楽しく、のびのびと音楽に集中し、成長できる居心地の良い場所でした。小学校時代から、好きなことをするためにさまざまな場所・環境に飛び込み、さまざまな人に出会えたことは、感性を磨く良いきっかけになりました。

大学受験では、英語に強い大学を志望していました。ゆくゆくは海外で仕事をしたいという考えもありました。とはいっても、海外でバリバリ仕事をするというよりは、休みの日にパブで現地の名も知れぬおじさんたちの音楽を聴きながらお酒を飲む。そういうイメージに憧れていたんです。好きなソウルやジャズ、ファンクが、自然と聴こえてきそうな環境で生きていきたいと思っていました。

自分は自分で良いんだ


大学では環境が一変し、大きな刺激を受けました。帰国子女や留学生が多く、アフリカ人もいれば、イスラムの人もいる。石油王の子どもなど大金持ちの人もいました。そして皆が皆、「自分はこうです」という「自分」が自然とある。自己肯定感があり、自信に満ち溢れて見えたんです。

その時、いかに自分が狭い環境で生きてきたかを痛感しました。地元の中学・高校に通ってきた自分は、特定の地域で同じような背景を持った人間の中でしか生きてこなかった。学校以外の人たちと音楽を通してつながってきたけれど、それさえも狭い世界に思えるほど、多種多様な背景を持った人たちがいたんです。

それまでずっと、自分は変わり者でした。でも「みんな同じ」ではない環境では、みんなに合わせたり空気を読んだりする必要がない。一人ひとりバラバラでよかったんです。「自分は自分で良いんだ」と思え、とても勇気付けられました。

コミュニケーションの仕方も人それぞれでした。自分のコミュニケーションツールは何だろうと考えた時に、やっぱり音楽だと思ったんです。音楽だったら、言語が異なっても、どんな背景の人とでも、コミュニケーションが取れる。音楽こそが自分のアイデンティティだと気付いてからは一層、音楽にハマっていき、ライブやイベントをやるようになりました。

そんな活動をしているうちに、小さい頃から好きだった手書きのイラストを活かして、ライブやイベントのフライヤー作りをするようになりました。さらに、良いものを作るべく、まだ珍しかったノートパソコンを入手して、独学でデザインを学び始めました。ホームページも作るようになり、次第にデザインを通して人とつながるのが楽しくなっていきました。そういうことができる人が多くはなかったので、知り合いのつながりで、いろんな音楽仲間から制作を依頼されるようになっていました。

とにかく音楽をやることと、音楽に関することをデザインで表現するのが楽しかった。音楽とデザインでみんなとつながれるのが嬉しかったんです。その経験から次第に、何かをデザインしたり、表現したりすること自体が好きかもしれないと考えるようになりました。

海外で確信した自分の働き方


就職活動の時期を迎えても、自分が会社という組織の中で周囲に合わせて行動するイメージはできていませんでした。手探りで何社か受けましたが、結果は全滅。やはり自分は一般の企業で働くことには向いていないのかと意気消沈しました。

このままの就職活動することを諦めたとき、残りの大学生活を海外での滞在に充てようと考え、ずっと行きたかった東南アジアに行くことにしました。とはいえ、そんなお金もありません。折良く、マレーシアで働いていたゼミの先輩が、自分の話を聞きつけ「うちの会社で仕事しながら滞在すれば?」と声をかけてくれました。クリエイティブデザインの会社ということで興味も湧き、行ってみることにしました。

現地では、その会社の代表を務める人に弟のように接してもらいました。日本人とマレーシア人、中国人の猛者が集ったチームの中で揉まれながら、その人と一緒に働くうちに、その働き方、考え方に、感銘を受けるようになりました。自分が面白いと思ったこと、自分にしかできないことを徹底的に追求する。それに必要なこと、環境は自らの責任で準備し、信頼する仲間と一緒につくり上げ、結果を出す。行動原理がシンプルで力強く感じたのです。

当たり前かもしれないこの考え方を、なんの力もない自分は、どう実行できるのか。自分しかできないことはなんなのか、そのために必要な環境はなんなのか、自分にとっての仲間とはなんなのか。そんなことをじっくりと考えるきっかけになりました。そして、このシンプルな行動原理を大切にする働き方こそが、自分の理想だと確信しました。

卒業を間近に控え、帰国を考えていたころ、「ちょうど知り合いが日本で会社を立ち上げるから、一緒にやってみたら?」と代表から紹介を受け、帰国してすぐに、その人と会うことになりました。その人はコピーライターやカメラマンとして活躍しており、そのほか数名のクリエイターたちとデザインの企画制作会社を立ち上げるとのことでした。

生き方、仕事の考え方、会社の理想像などに非常に共感し、話をする中で、仲間として一緒にやっていくことがその場で決まりました。その人は、まだ「働く」ということを何もわかっていなかった自分に、朝も昼も夜中もずっとつきっきりで大切なことをたくさん教えてくれた恩人です。

責任を持ってのびのびと働ける環境づくり


会社と言っても、みんながそれぞれ自分のできることをやるという感じでした。自分も役割が与えられるわけでもなく、仕事が用意されているわけでもありません。

まずは、知人に片っ端から電話をかけました。いきなり「デザインしませんか?」と言うわけにもいかないので、何か困っていることはないかを聞くところから始めました。

インターネットを会社に導入したいので配線をやってほしいなど、相手が必要としていることで、自分にできることは何でもやりました。手伝いをしながらその会社の人たちとコミュニケーションを取り、気になっている点や改善したいと思っている点を聞き、次の日にその意見を汲み取ったアイデアを提案しに行きました。そこから少しずつ、「こんな仕事もできるんですよ」と話をするようになり、次第にデザインの仕事ももらえるようになっていきました。

とにかく毎日をどう生き抜くかしか考えられなかったですね。怒涛の日々で、がむしゃらに生きていました。それでも、毎日が新しいことの連続で、明日自分が何をやるかもわからない状況も楽しめました。なにより、自分が今どうすべきかを考え行動し、それを仲間と一緒に追求する環境が良かったんだと思います。日々ひたすら働くことは、好きな音楽をいろんなバンドメンバーと一緒に創り上げていく、あの感覚と一緒でした。

5年ほど経ち、会社が大きくなっていくと、メンバーひとりひとりよりも会社組織のことを優先しなくてはいけない場面が増えていきました。会社の環境変化に合わないメンバーの多くが離れていき、ほとんど総入れ替え状態。そうなった時、あらためて会社にとって大事なのはメンバーであり、いかにメンバーが伸びやかに力を発揮できる環境、組織をつくれるかが大事なんだと再認識しました。一人ひとりが自分の仕事に集中し、のびのびと働き、互いに甘えず、自分の責務を果たす。それが自分の理想の環境です。音楽でも、それぞれの楽器がしっかりと自分のパートで音を出さないと、良い音楽は生まれないですからね。

少しずつ、理想の環境に近づく中で、自分は今、本当にユーザーやクライアントにとって最適な提案、結果を出せているのか、と疑問が出てくるようにもなりました。会社や組織が充実するだけでなく、そこで創り出されたものが本当に社会の中で意味、意義のあるものになっているのか。これまでも幾度となく考えていたことでしたが、会社外の優れた仲間たちとも一緒に、もっと自由にかつ純度高く仕事に向かいたいと考えるようになりました。

そこで新たに、より小さな企画中心のクリエイティブの会社を立ち上げることにしました。自分やメンバーのみんなが最大限に力を発揮できるよう、プロジェクトごとに会社の枠組みを超えたチームづくりができるような仕組みにしたんです。そうすることで、関わる人が増え、携わる事業も増えていきました。
さまざまな人や事業に関わっていくうちに、築きあげた企画とデザインの力を、自らの事業にも活かしたいと考えるようになり、より積極的に異業種の人たちとも会うようになりました。そこで新たに始めたのが、「みんなの力が自然と発揮される居心地の良い環境」の輪を広げた、コミュニティスペースや飲食店などの場づくりです。

立ち上げメンバー全員が音楽好きの出汁料理屋「浅草おと」、変わりゆく東京の街・虎ノ門で人と人をつなぐコミュニティスペース「新虎小屋」などを運営しています。個性豊かな仲間たちそれぞれが自分の力をのびのびと発揮し、一緒に一つの音を奏でるかのような感覚で場づくりをしています。

最終的には笑って死にたい


現在、企画制作を行う株式会社ビオトープの代表取締役を務めるほか、数社の企業を共同経営しています。

「たくさん会社をやっているんだね」「起業家だね」とよく言われます。でも、起業家という意識はないんです。自分が何かをやりたいと思った時、自分と仲間が最大限に力を発揮するため居心地の良い空間をつくる。これを優先して考えてきた結果、会社が増えた。あくまでそれぞれに適切な環境をつくってきただけです。

1つの会社で異業種の事業をやるとなると、社内での意思疎通や、全員にとって居心地の良い環境をつくるのが難しくなってしまうんです。だったら、事業ごとに会社をつくろうと。これを、「小さな生息圏をつくる」と表現しています。この考え方から、生物空間や、生物が住みやすいように環境を変えることを意味する「ビオトープ」という言葉を社名にしています。

人は、自分にとって居心地の良い環境が守られていないと、他人や相手のことを考えてあげる余裕がなくなり、ついつい攻撃的になってしまう場面もあります。「自分はこれで良いんだ」と安心できる環境があれば、お互いを認め合い、それぞれの違いを活かして、しっかりと責任をもって自分の力を発揮できるんだと思います。そうすれば、継続的な心地良い場となり、いる人も皆幸せになれると考えています。

自分の最終的な目標は、笑って死ぬことです(笑)。おじいちゃんが亡くなったとき、葬式に行ったら、棺の中で顔が笑っていたんですよね。それがすごく印象に残っているんです。人って悩んでいたり辛かったりしたら、笑って死ねないじゃないですか。自分にとっても仲間にとっても居心地の良い環境で毎日を過ごして、幸せに生き続けることで、笑って死ねるんじゃないかなと思うんです。

自分にとっても仲間にとっても、居心地の良い環境は変化していくと思っています。居心地の良い環境づくりに終わりはありません。これからも、自分と身近にいる人たち、みんなが居心地良く暮らせる「小さな生息圏」を丁寧につくっていきたいです。

2019.09.02

インタビュー・ライディング | 湯浅裕子編集 | 粟村千愛
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