人に、自然に、生かされている自分の使命。一次産業に携わる人と「外の人」とをつなぐ。

北海道の浦幌町で、一次産業に携わる人たちと、一次産業に関わりのない人たちとをつなぐため、様々な活動をされている近江さん。もともと漁師として稼ぐことに夢中でしたが、現在は地域のためにと活動されています。行動を変えた背景には何があったのか、お話を伺いました。

近江 正隆

おうみ まさたか|株式会社ノースプロダクション代表、NPO法人食の絆を育む会理事長、NPO法人うらほろスタイルサポート理事
株式会社ノースプロダクションの創業者で、NPO法人食の絆を育む会の理事長やNPO法人うらほろスタイルサポートの理事を務める。十勝の一次産業に携わる人たちと他の人たちをつなぐため、ホームステイ事業や教育事業など様々なプロジェクトを手がける。

東京を離れたい


東京都目黒区で生まれました。小さい頃はよく親にキャンプに連れて行ってもらい、魚の釣り方を教わりました。釣りが大好きになりましたね。小学生になると弟と一緒に始発の電車に乗って遠くの海岸まで行って、ボートを借りて釣りをしていました。

ある程度、釣りが上達してくると、毎年家で作っているおせち料理に入れるハゼを釣ってくるよう、両親から頼まれるようになりました。毎年夏休みになると、朝ラジオ体操をしたあと自転車で近くの運河まで行って、ハゼを釣るのが日課でした。釣ったハゼは焼き干しして取っておいて、おせちの時に甘露煮にするんです。毎年100匹ほどは釣っていましたね。

小学校卒業後は地元の中学に進学しました。高校受験の時期になあると、成績が比較的よい方だったことから周りに勧められるまま、都内の進学校を受験しました。

無事に合格できましたが、通学するときの満員電車に耐えられなくて、よく学校をサボるようになりました。学校に行くと言って出かけ、違う場所で本を読んでたりしましたね。好きな作家の出身地に夜行列車で出かけたりしていました。人混みは嫌いで、静かに過ごすのが好きだったんですよね。

進路選択の時期になると、周りの友人たちと同じ道に進むのに違和感を覚えるようにもなりました。特に街で見かけるくたびれた顔のおじさんたちを見ると、「このまま勉強を続けて大学に行って、自分もこうなるのは嫌だな」と抵抗を感じたんです。

そんな中、たまたま読んだ本で、海員学校というものが存在することを知りました。魚が好きで、海も好きだった自分にはぴったりの学校だと思いました。調べたところ、座学だけではなく、日本を一周しながら実際に船の操縦などを学べると知り、実践から学べる教育方針にも興味を持ちました。

また、卒業まで1年間しかなく、合わなきゃやめればいいかと思ったことも後押しとなりました。そこで、高校卒業後は周りの友人たちと同じように大学を受験するのではなく、その海員学校に通うことにしました。

海員学校卒業後は、就職先が見つからなかったので、一度実家に帰りました。実家で、働き先の情報を集めていると「北海道の自然の中で酪農の仕事をしながら半日気球に乗って、余暇を楽しみませんか」という広告を見つけ、とりあえずやってみるかと応募しました。とにかく都会から離れたかったんですよね。

それから1年間の期限つきで酪農の仕事をしました。過酷な労働環境で、朝は5時に起きて夜8時まで働いて、休日は1カ月のうち1日だけ。お給料は1カ月8万円でした。それでも、めちゃくちゃやりがいを感じながら働いてましたね。なんでも自分たちでやってしまう酪農家さんたちの姿を見て、都会では感じられなかった人の生きる力みたいなものに触れて、すごく刺激をもらいました。

あっという間に雇用期限である1年間が経ち、次の働き口を考えなくてはいけなくなりました。そこで、子どもの頃から魚釣りが好きだったので、漁師になろうと思いました。

漁師になるなら、大きな船に乗るよりも小さな漁船に乗りたいなと思いました。何でもかんでも自分たちでやってしまう酪農家さんたちの姿に憧れ、自分も、身の丈にあった何でも自分たちでやる暮らしがしたいと思っていたからです。ただ、そんな求人はどこにも載っておらず、どうやって探したらいいのかもわかりませんでした。

港の近くで歩いていれば誰かが声かけてくれて、雇ってくれるんじゃないかと思って、リュックサックとテントを持って、2カ月かけてずっと海岸沿いを歩いて回りました。なかなか雇ってくれる人が見つからず、唯一興味を持って声かけてくれた漁師さんも、しばらくすると「何かあったら責任が取れないから」という理由でやっぱり雇えない、と連絡を入れてきました。

他に当てはなく、断られたらもう後がないと思っていたので、なんとか説得しなければと必死で食らいつきました。その漁師さんが漁に出ないときは近くでアルバイトをしているという話を聞いて、同じところでアルバイトをはじめました。住み込みで働かせてもらいつつ、何度も漁師さんの家に通って、働かせてくださいとお願いしました。

すると、そんな僕の様子を見ていた周りの漁師さんたちが興味を持ってくれて、よく話すようになりました。周りに漁師友達ができた僕を見て、働かせて欲しいとお願いしていた漁師さんはとうとう折れ「春先になったら船に乗せてやる」と約束してくれました。住み込みのバイトを続けながら春が来るのを待ちました。

春になると約束どおり漁に連れて行ってもらえるようになり、ようやく念願だった漁師になれました。順調に仕事をこなし、経験を積んでいきました。

売り上げが上がり、天狗に


給料は完全歩合で、何百万円も稼げる月もあれば、3カ月連続で収入0円の月もありました。収入がないときは辛かったですが、獲れないときも苦じゃなかったですね。毎日遠足みたいなワクワク感がありました。念願の漁師になれて、大好きな魚を釣り放題で、「天国だ、このまま死んでもいい」とすら思っていましたね。

7年ほどそんな生活を続けましたが、結婚して子どもができてライフステージが変わると、徐々にこのままの生活ではダメだと思うようになりました。自分一人の生活だったら最高だけど、家族を振り回すのはよくないと思ったんです。

そこで、徐々に世間に浸透し始めていたインターネットを使って、稼ぐ方法はないか調べるようになりました。調べるうちに、インターネットを使えば販路拡大ができそうだと思ったので、加工品を販売して収入をもっと増やすことに決めました。

ところが、まるっきり売れなかったんです。マーケティングについて何も知らなかったので、売れないのは当たり前でした。ただ商品をサイトに並べているだけでしたからね。完全に自己満足の世界でした。

そんな中、たまたま活動がテレビに取り上げられ、その番組を見た人からインターネットを使ったマーケティングセミナーを紹介してもらいました。写真の撮り方やメルマガの打ち方など、商品を売るためのノウハウをたくさん教えてもらいました。

売れないと死活問題なので、それから毎日、パソコンとにらめっこでした。教えられた方法で顧客分析をして、仮説を立てながらメルマガを配信して、というのを何度も何度も繰り返しましたね。必死で取り組むうちに、気がつけば大手ネットショッピングサイトの魚部門で、売り上げ1位になりました。

そこからは加速度的にネット販売の仕事が面白くなっていき、のめり込むようになりました。雑誌やテレビに取り上げられるようになり、本業である漁師としての活動よりもPRに意識が行くようになりました。そして、内心どこかで周りの、稼げていない漁師たちを見下すようになりました。

自分は生かされていたのだ


売り上げが順調に伸びていく中、忙しさはピークに達していました。顧客とのメールのやり取り、商品加工、漁、と全ての工程に携わっており、1日1時間しか寝られない毎日が続きました。

ある日、いつも通り漁に出たのですが、眠たすぎて出航してすぐ船内で眠りにつきました。いつもなら船の上で寝たりしないのですが、その日はどうしようもなく、漁師になって初めて船の上で寝ることにしたんです。

しばらく寝ていると、突然「ゴロゴロゴロ」という大きな音がして。何事かと飛び起き、すぐに船外に出ました。見ると、船が暗礁に乗り上げて、転覆しかけていました。

無我夢中で仲間と一緒に船から脱出し、なんとか命からがら生き延びることができました。

死を近くに感じたことで、調子に乗っていたところから一転して、どん底まで落ち込みました。強烈に印象に残ったのは、転覆した時、自分が心のどこかでバカにしていた仲間の漁師たちから「大丈夫か?」と本気で気遣ってもらい、助けてもらったことでした。もし自分が逆の立場だったら、自分を見下しているような奴を本気で助けるだろうか?と自問自答しました。

また、17年間漁師をやってきて初めて船の上で寝た、まさにそのタイミングでの事故だったので、この出来事は自分に何かを教えてくれているのだと思いました。事故のことを何度も考えるうちに、自然を相手にした営みの中で生まれた「支え合う」とか「助け合う」といった漁師ならではの価値観に、自分は生かされたのだと気がつきました。

考えれば考えるほど、これまで周りを顧みず生きてきた自分のことを「なんて汚い人間なんだろう」と思うようになったんです。そう思うと、これまで自分がやってきた仕事ができなくなってしまいました。

それでも、生活するためには仕事をしないとと考え、改めて自分がこれから何をすべきか考えました。その結果、このまま自分のためだけに働くのではなく、自分を生かしてくれた周りの人たちのためになりたいと思うようになったんです。

「つなぎ役」になる


それからは、自分がこの地域に移り住んで20年経つうちに学んだことは何か、自分に何ができるのか、考え続けました。いろいろな活動にも関わるようにし、普段全然行かなかった学校のPTA活動なんかにも顔を出すようになりました。

その結果、自分にできるのは、よそから来た立場だからこそ敏感に感じ取れる地域の価値を発信することだと思い至りました。特に、価値だと思っていたのは「人の魅力」で、これまで出会ってきた多くの、自分の仕事に誇りを持って頑張っている漁師さんや農家さんたちの魅力を、発信したいと思うようになったのです。

そこで、一次産業に携わる人たちと一次産業に馴染みのない人たちとをつなぐ会社を立ち上げました。社名にはあえてタレント事務所のような「プロダクション」という言葉を使いました。一次産業に関わる人たちの魅力を引き出し、発信する点ではタレントを扱う芸能事務所の仕事と似ていると思ったのです。

最初は生産者と消費者が交流できるイベントを開催しました。多くの生産者さんと会い、仕事内容や想いに触れ、改めて「なんて価値のある仕事をしているんだ」と思うようになりました。人が生きる上での根本に携わっている尊さを感じ、同時に、この価値があまり伝わっていないなとも感じました。

考えてみれば、自分も、本気でその価値の大きさに気が付いたのは実際に顔を合わせ、現場で働く姿を見たときでした。だから、いくら言葉で生産者さんたちの働き方や価値を伝えても、伝らないだろうなと思ったんです。

そこで、生産者の家にホームステイする仕組みを作ってはどうかと思いつきました。1泊だけでも、寝食を共にすれば、農村や漁村と聞いたときに顔や情景がパッと浮かぶようになり、言葉で聞くよりもリアルに生産者の人たちの大切さがわかるようになると思ったんです。

そんな思いから2009年、ただの作業体験や知識の勉強ではなく「家族のような繋がりを作る」をテーマに生産者とそれ以外の人たちをつなぐホームステイ事業を開始しました。

継続的な仕組みづくりを


現在はNPO法人の代表や会社の代表として、十勝の生産者と他の地域の人たちとをつなぐ事業を展開しています。

具体的には、都会の子どもたちを対象とした農家や漁師の家庭でのホームステイ受け入れ事業です。最近は修学旅行生の受け入れサポートに力を入れています。全国から高校生が参加してくれて、年間で2000名、これまでで合計20000人以上の学生のホームステイを実現させています。また、学校と連携し、教育プログラムの他にも、地域やそこに暮らす生産者の方々が持つ、魅力や価値をより多くの人に伝えられるよう、複数の事業に同時に取り組んでいます。

そんな中で、大事にしているのは事業を次の世代に引き継ぐことです。事業がせっかく人の役に立っていても、続かなくては意味がありません。なので、事業そのものを、自分以外の人たちに引き継ぐようにしていますし、引き継いだ人たちも他の人へ渡しやすい形を作るようにしています。

また、これまでは使命感に燃え「これをしなければ」と活動してきましたが、今後はもう少し「活動を楽しむ」ことにも取り組みたいと考えています。そうすれば活動に興味を持ってくれる若者たちが増えるのではと思っているからです。

今後は、価値のある地域を守り続けるためにも、教育体制に関する改革に着手していきたいと思っています。具体的には、人口減少で教育費がどんどん縮小されている中で、国に頼らず、十勝にある多くの資源を活かしてお金を生み出し、そのお金を教育費用に当てる、という仕組みを作っていきたいです。

そんな姿を見せることで「教育の大切さ」を感じて育ってくれる子ども達が増えるのだと思っています。そうやって次の世代、またその次の世代へと大切な考えが受け継がれるようにしたいです。

子どもたちを軸にした、未来まで続く人づくりやまちづくりの仕組みを作れれば、全国の同じ問題を抱える地域を救うこともできるのではと考えています。そんなモデルを、大好きな十勝から生み出していきたいです。

2019.08.29

インタビュー | 長谷川 琢也編集 | 種石 光
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