大好きな焼酎を通して見つけた人生の軸。誰かの「きっかけ」になる繋がりを作りたい。

コミュニティスナックを運営して地方の人やモノの魅力を伝えるかたわら、2代目ミス薩摩焼酎としての経験を生かし、焼酎のPR活動にも力を注ぐ冨永さん。子どものころから教育の世界を志してきた冨永さんが「地方」「焼酎」に人生の軸を切り替えた理由とは?お話を伺いました。

冨永 咲

とみなが さき|株式会社FoundingBase広報担当、2代目ミス薩摩焼酎
地域おこし×若者人材育成を行う会社で、コミュニティスナック「かくれ架BASE」を運営し、イベント等を通じて地方の魅力を伝える。ミス薩摩焼酎としての経験を生かして、焼酎のPR活動にも力を注ぐ。

鹿児島だけの人生はもったいない


鹿児島県の田舎で生まれました。木登りをしたり魚釣りをしたり、トカゲを捕まえたりして遊ぶ山猿のような子どもでしたね。ずっと外に出ていてほとんどテレビを観なかったので、あまり世の中を知りませんでした。

成績が良かったので、学校では友達に頼まれてよく勉強を教えていましたね。相手がわかるようになるとうれしくて、将来は教師になりたいと思うようになりました。

中学校の社会の授業で、世界で活躍する日本舞踊家が来て講演してくれました。話を聞く中で、いろいろな国に友達がいるのが印象的で、うらやましいなと思いました。

また、身につけていたオシャレなカバンが、海外の職人さんに作ってもらったものと聞いて、私の知らない世界を知っているその人がキラキラ輝いて見えたんです。同時に、鹿児島しか知らない人生はもったいない、もっと広い世界を見てみたいと感じました。

すぐに思いを行動に移し、翌年、鹿児島県の交換留学プログラムでアメリカに1カ月ホームステイしました。滞在中、特に印象に残ったのはホストファミリーや現地の方とのお別れ会でした。私が浴衣を着て参加すると、現地の子どもたちに「日本文化をもっと教えて」と言われましたが、答えに詰まってしまいました。紹介できるほど知っていることがなかったんです。

世界を知る前に、まずはもっと自分の国を知らなければと思いました。大学生になったら絶対に上京して日本を知ろうと決め、県内の進学校を卒業して教育学部がある首都圏の大学に進みました。

日本の教育のあり方への違和感


大学では、教育への関わり方はたくさんあって学校の先生になるだけが全てじゃないと学びました。海外の子どもたちへの教育支援もやってみたいと思い、発展途上国でのボランティア活動に参加しました。

恵まれない子どもたちを救いたい気持ちで行きましたが、いざ現地に着くと想像と全く異なる光景がありました。草むらを裸足で駆け回る子どもたちの目がとても輝いていたんです。支援しようなんて上から目線自体、偏った見方だったと気づかされましたね。

途上国で受けた衝撃が忘れられない中、帰国後は教師になるため、とある公立小学校に教育実習に行きました。クラスの子どもたちの8割以上が塾や習い事に通い、中学受験を目指している子も多く、ほぼ遊ぶ時間がない状況でした。生徒に「なんで塾に行くの?」と聞くと、「親が行きなさいと言うから」「良い大学行って良い会社に入るのがいいって聞いたから」と答えるんです。そのとき、途上国の子どもたちの笑顔を思い出し、違和感を覚えました。

途上国の子どもたちのほうがずっと貧しい生活をしているのに、日本の子どもたちよりも生き生きしてるように見えたんです。その違いはおそらく、途上国の子どもの方がのびのび生きていて、日本のこどもは大人の意向によって生き方を縛られているところにあると感じました。

これまでは、幸せとは経済的な豊かさだと無意識に考えていました。でも、孤児院でのボランティアと教育実習を通して、「心の豊かさ」のほうが大切だと思うようになりましたね。

教育実習では、現場の実態と世の中に伝わるイメージにギャップがあるとも感じました。実習先の先生方は教育熱心で、授業のレベルはとても高かったです。子どもたちの議論が活発な授業ばかりで、衝撃を受けました。しかし、現場のポジティブな側面はほとんど伝えられておらず、モンスターペアレンツや教師の不祥事のほうが目立ってしまっているんです。

実習を通じて、教育現場の良い取り組みを広く届けるとともに、親から敷かれたレールではなく自分で生き方を選べるよう、人生の選択肢を広げるきっかけを作りたいと思うようになりました。まず、教育現場の実情を伝えることから行っていきたいと思い、マスコミを中心に就職活動をして新聞社に入社しました。

ミス薩摩焼酎への挑戦


教育部の記者志望で入社しましたが、配属は広告の企画営業部。早く結果を出して希望の部署に行きたいと考えていました。

いざ取り組んでみると、私塾や教育委員会と連携して、高校生を対象にシンガポールでのグローバル育成プログラムを作ったり、市と大学がどう連携していくべきかについて大学の学長や学部長の思いを伝える特集記事を企画したりと、企画営業部の立場でも教育に関わる仕事ができました。社会人経験の浅い私でも、新聞社の名刺があれば町のおじちゃんから企業や行政のトップ、時には政治家から芸能人まで、幅広いジャンルの人に会うことができました。それぞれの仕事が刺激的で、とても楽しかったです。

2、3年目になると任される仕事の幅が広がり、企画営業の仕事にやりがいを感じていました。ただ、このまま順調にキャリアを歩めるのかなという不安もありました。新聞社は、外回りや飲み会が多い体育会系の働き方なので、長く働き続けられる自信がなかったんです。

そんな時、新規営業で訪問した出版社で、あるプロモーション担当の方と知り合いました。その方は本業の仕事をしつつ、ミュージシャンやラーメンライターとしても活動していたんです。単に複数の肩書きを持っているだけではなく、複数の顔が出版社の仕事にも活かされていてすごいなと思いました。

その出会いをきっかけに、私も会社員という枠にとらわれずに、「冨永咲」として社会に価値を発揮できるようになりたいと思うようになりました。会社以外に自分を表すものって何だろうと考えたんです。

自分にどんなアピールポイントがあるか、過去に出会った人とのやりとりを振り返っていくと、取引先の社長さんたちとの会食シーンが浮かびました。自己紹介で「鹿児島出身です。焼酎が飲めます」と挨拶すると、盛り上がったんです。

焼酎が自分のアイデンティティではないか。そう思い至り、人の好みにあう焼酎を提案できたら面白いと思って調べていくと、焼酎には2000以上の銘柄があると知ったんです。なんて奥深い世界なんだと、その魅力にとりつかれました。

調べる中で、「ミス薩摩焼酎募集」の記事を見つけました。審査で選ばれた女性が1年契約で薩摩焼酎をPRする仕事で、これは自分で人生を作っていくチャンスだと感じましたね。

自信があったわけではないのですが、やれるだけやってみようと勢いで応募したら、合格したんです。周りからは反対されましたが、そのまま新聞社を辞めてミス薩摩焼酎としての活動を始めました。

トライアンドエラーする中で見えたこと


活動当初は自分でも焼酎のPR企画を立てようとやる気満々でしたが、なかなか上手くいきませんでした。求められているのは、焼酎イメージアップのためのマスコット的役割だと気づいていなかったんです。役割をよく理解せずに応募した自分の甘さを痛感しましたね。

イベント参加などミス薩摩焼酎としての仕事は月に2、3回ペースなので、活動と両立しながら働ける仕事も探しました。自分で事業を立ち上げる力が足りていないと思っていたので、今まさに新しい事業を作っているところだった人材系のベンチャー企業に就職しました。

人材紹介事業をほぼゼロから1人で任せてもらえましたが、クライアントの開拓をしようとしても、門前払いされることがほとんどでした。新聞社で結果を残せたのは、新聞社の看板のおかげだったと痛感しましたね。

人材紹介で行なっていた転職支援では、200人以上の20代のキャリアに向き合いました。その結果、多くの人が現状に不満を抱えていて、これからの生き方や働き方に不安や迷いを持っていることに気づきました。しかし、転職支援を目的としたキャリアカウンセリングでは、個人の深いところまで引き出して長期的に伴走することが難しいんです。転職という目の前の企業へのマッチングでは救えない人へのもどかしさに葛藤する毎日でしたね。

ミス薩摩焼酎の活動もベンチャー企業の仕事も上手くいかず、自分は新聞社を辞めてまで何をやってるんだろうと落ち込みました。新聞社時代にお世話になった方が連絡をくれましたが、合わせる顔がなくて会えませんでした。

どん底の中で励みになったのが、ミス薩摩焼酎としての活動を応援してくれた人たちの言葉でした。イベントに駆けつけてくれた友達から「活動している姿を見て勇気をもらった」と言われたのも、すごく励みになりました。自分と同じ思いを持った人がいるとわかり、少しでも人の役に立てていると思うとうれしかったですね。

入社半年後ぐらいから徐々に成果が出るようになった一方で、会社と方向性が合わなくなっていったので、1年で退職しました。

その後、2カ月間知り合いの紹介で受けた仕事を中心にフリーで活動していました。それまでの1年間、目まぐるしく働いていたので、自分のこれからをじっくり考える良い機会だと思いました。自分は何がしたいのか、どう生きたいのか、自分を見つめ直した結果、個人だけで活動するよりも、組織でしかできない大きなことがやりたいという考えに至りました。

同じ頃、前職の取引先だった会社の社長と話す機会があり、いつでもおいでと言われました。この会社は地域活性のまちづくりと若者の人材育成を事業の柱にしていて、これまでの経験と結びつくのではないかと思いました。

その後、3度にわたり計20時間以上社長やメンバーと、時にはお酒を交えながら何度も何度も対話しました。事業に対する想いへの共感はもちろん、人に向き合う姿勢や大事にしている世界観が一致し、ここのメンバーと一緒に働きたいなと思ったので入社を決めました。

入社して最初に任されたのは、会社の移転によって残された旧オフィスの活用法を考える仕事でした。人や地域をつなぐ会社のコンセプトと、自分の得意分野である焼酎をうまく絡められないかと考えた結果、「コミュニティスナック」というアイデアを思いつきました。憩いの場のイメージがあるスナックの良さを生かしつつ、その場に集まった人がコミュニティになっていく新しい形のスナックです。

そんな構想を考えていたときにミス薩摩焼酎時代の知り合いに誘われて、鹿児島県霧島市のビジネススクールに参加しました。著名な講師による全5回の講義を受けた後、集大成として、ビジネスプランコンテストがありました。これはチャンスだと思って温めていたコミュニティスナックのアイデアで挑んだ結果、賞をいただけました。

賞を取れたのもうれしかったですが、それ以上にいろいろな人から激励の言葉をもらえたのがうれしかったですね。自分のやりたいことを言葉にして発信するのは大事なのだと改めて実感しました。

人の人生を変えるきっかけになりたい


現在は、株式会社FoundingBaseで広報を担当しています。特に力を入れているのは、東京のコミュニティスナック「かくれ架BASE」の運営です。かつての私のように「これからどう生きよう?」と悩む若い世代の人たちが、お互いの繋がりを深めていけるような場づくりを心掛けています。各地方での自社の取り組みや様々な分野で活躍するゲストを招いたイベントの開催など、生き方の選択肢を紹介することで、集まった人たちがちょっと先の未来の自分を考えるきっかけとなればいいなと思っています。

個人としては、薩摩焼酎の魅力を発信していて、かくれ架BASEに様々な焼酎を取り揃えて焼酎の美味しさを知ってもらったり、ミス薩摩焼酎をきっかけに交流のある蔵元さんや飲食店さんと焼酎のイベントを開催したりしています。

SNSで簡単に繋がれる時代だからこそ、オフラインのコミュニティから生まれる関係性や、美味しいお酒や食事を囲んで人と一緒に味わうことが大事だと思っています。そうすると自然にお互いの魅力が引き出されていく。コミュニティスナックで、そんな場を作っていきたいです。

私はいろいろな人と会って自分と異なる生き方を知り、次の行動のきっかけとしていました。だから、コミュニティスナックで人と人、人とモノを繋げ、生き方の幅を広げられたらいいと思っているんです。焼酎のPRも想いは同じです。お酒の楽しみ方の幅を広げたいですね。

人生の豊かさは多様な人との対話や地域との関わりから生まれると思います。だからこそ焼酎のPRやコミュニティスナック運営で、人の生き方の幅を広げるきっかけをつくりたい。私自身の生き方も誰かが一歩踏み出す勇気になれればと思っています。

2019.08.19

インタビュー・ライティング | 伊藤 祐己
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