日本刀本来の存在価値を取り戻す。1000年後にも遺る作品を作り続けるために。

日本刀の美しさに魅かれ、入社1年目で突然、日本刀を作る「刀鍛冶」になるべく退職した川崎さん。厳しい修行を乗り越えた今、「刀鍛冶は自分の天職」だと言います。川崎さんが日本刀作りを通して実現したいこととは何か。お話を伺いました。

川崎 晶平

かわさき あきひら|刀鍛冶
「1000年後も遺る作品」を目指し、日本刀作りを行なっている。一目見てかっこいいと思わせる作品を作ること、そして刀の武器以上の文化的価値を伝承していくことで、「刀」自体の価値を取り戻そうとしている。作品作りのほかにも講演活動や執筆など、情報発信も精力的に行っている。

内向的な子供時代


大分県大分市の田舎で生まれ育ちました。幼稚園に入る直前に肺炎を患ってしまい、周りの子たちよりも遅れて入園しました。通い始めた時にはすでに仲良しグループができあがっていて、輪に入れずに孤立することが多かったです。

そのクラスの先生は園児に「大丈夫でしゅか~?」といった具合に、赤ちゃん言葉で接するのがすごく不快でした。私の家では、大人たちときちんとした言葉で会話する事が当たり前でしたから、対等に接してくれないことがすごく不愉快で、先生とは一切話さなくなりました。話をするだけ無駄だと思ったのです。

あまりに受け答えをしなかったことから、先生たちの間では「知能に障がいがあるのではないか」という話になっていました。そこから周りにいる人が一気に信用できなくなり、他人に対して、どこか一歩引いて接するようになりましたし、小学校も国立大の付属校を「お受験」することにしました。子ども心に、同じ顔を見て過ごすのにうんざりしていましたから。小学校入学後も、他の子のように他人と仲良くすることができなくて、人付き合いが苦手で友達は少なかったです。

一方で、従弟たちとはよく一緒に遊んでいました。祖父の家に遊びに行っては、外で枝を拾い、チャンバラごっこをしていました。武家の家系だったことから、祖父の家には刀があり、たまに見せてもらってはキラキラしていてかっこいいなあと思っていました。

テレビで見ていた影響で、野球が好きだったのでやってみたいと思い、地元の少年野球チームに入団しました。中でも、独立していて、個人競技のイメージがあったピッチャーになりました。しかし、思っていた以上にチームメイトや監督との人間関係を築く必要があり、それが、わずらわしく感じるようになりました。改めて、チームプレイは自分には向いていないんだなと実感しましたね。

高校では先輩に誘われて新聞部に入部しました。一人で行う作業もあり、文章を書くのも好きでしたが、編集作業はチームプレイでしたね。楽しかったですが。卒業後は、東京への漠然とした憧れから、都内にある大学に進学しました。

大学生になるとアーチェリーをはじめました。個人競技だと思って入部した体育会洋弓部でしたが、リーグ戦になるとチームプレーなのですね。監督さんやチームメイトとに信頼関係が大切であることも学びました。

ある時、友人から「居合」の道場に通ってみないかと誘われました。居合とは「勝負は鞘の内」と言われる古武術です。時代物の小説が好きだったこともあり、習い始めることにしました。型稽古はひとりで行うことも多く楽しかったし、すごく自分に向いているなと思いましたね。

刀に魅了されていく


博物館や美術館を巡るのが好きになり、時間を見つけては足を運んでいました。ある日、博物館に日本刀の展示を見に行きました。そこで国宝「城和泉守正宗」という名刀を見て衝撃を受けたんです。とにかく姿形が美しく、品があって力強かったのです。居合で刀を使ってきましたが、あくまで武術用だったので美しいと言えるものではありませんでした。これまで知っていたのとは全く違う刀の世界があることを知りました。

同時に、「刀鍛冶」という職業に漠然と憧れるようになりました。しかし、まだインターネットが普及しておらず、書籍にもあまり情報がないので調べようがなく、どうやったらなれるのかもわからないままでした。そうこうしているうちに大学卒業の時期がやってきました。

将来やりたいこともなく、周りに流されながら就職活動をする中で、待遇が良いという理由だけで大手化学製品メーカーに就職しました。

営業職として1年ほど働いた時、地方転勤の話がありました。生まれ育った土地で苦労した経験から、地方にあまり良い思い出がなく、転勤はしたくありませんでした。どうしようか悩んでいる中で、ふと、学生の時に衝撃を受けた美しい刀を思い出しました。そして、自分も、見る人を魅了する作品作りがしたいと強く思ったんです。

一度挑戦したいと思うと、諦められず、会社に「刀鍛冶になりたいので辞めます」といって退職しました。「刀鍛冶って何?」と、みんな困惑していましたね。

退職したものの、刀鍛冶になれるあてはありませんでした。「宣言したからには行動しないと」と思い、本気で刀鍛冶に関する情報を集めました。図書館で本を読み漁り、日本刀の有名な産地にも足を運びました。

そんな時、デパートで働いている友人から「次回の美術画廊での祭事で現代刀の展覧会があるから来てみない?」と誘いがありました。有名な刀匠の弟子たち15人程の作品による一門展です。

多くの作品が並ぶ中で、一番惹きつけられたのがとある方が作った刀でした。一目見た時に「かっこいい」と感じるパワーがあり、他の作品と何度見比べても、彼の作品が圧倒的に魅力的で、「この人に弟子入りしたい」と思いました。

その日、たまたま会場に本人が来ていて、誘ってくれた友人に紹介してもらい直接話ができました。弟子入りをお願いしてみましたが、「俺はまだ若いから弟子なんかいらない。面倒くさいし、取る気はないよ」とあっさり断られてしまいました。確かに、彼の年齢で弟子を取っている刀鍛冶はほとんどいませんでした。

それでも諦めきれず、何度か彼に手紙を書きました。なかなか返事が来なかったのですが、何通も書き続けていたところ、ようやく「今度、仕事場に遊びに来るか?」と返事がきました。すぐに、長野に仕事場を構えている彼に会いに行きました。そこで改めて「弟子入りさせてください」と懇願し、ようやく弟子入りを認めてもらうことができました。彼の最初の弟子でした。

彼の仕事場には、先代の頃使われていた弟子部屋があり、そこを自分で綺麗にしてに住まわせてもらうことになりました。東京から長野に引っ越して、師匠と衣食住を共にする生活が始まりました。

刀鍛冶の道へ


弟子生活は、それまでの東京でのサラリーマン生活とは全てが違いました。衣食住は師匠が面倒を見てくれる代わりに、給料も休みも自由もありません。仕事場と師匠の自宅は同じ敷地にあり、師匠の子どもたちの世話をするのも弟子の仕事でした。

弟子入りしてすぐ、師匠から「親の挨拶がなければ正式な入門を認めない」と言われました。父は刀鍛冶の道へ進んだことを、反対していました。息子が東京で会社勤めを始めたことを喜んでいた矢先、生計を立てていけるかもわからない、日本刀の職人になると言い出したので、当然といえば当然かもしれません。

ただ、それでは師匠に認めてもらえないので、なんとか父を説得し、弟子入り3カ月目にしてようやく父が挨拶に来てくれることになりました。

その前日、些細なことから師匠を怒らせてしまいました。身だしなみを整えろという意味で「髪を切ってこい」と言われたのですが、師匠の言う通りにしなかったんです。私の日頃の生活態度も良くなかったようで、師匠の中で積もっていた怒りが爆発してしまいました。

挨拶の当日、師匠は父に「こいつを連れて帰ってくれ」と言いました。人生初の土下座をして「残らせてください」とお願いしましたが、許してもらえず破門となりました。

実家に戻り、それから10日ほど自分の人生について真剣に考えました。「何も身に付けられていない状況で今この世界から外れたら、人間のクズになってしまう」と危機感を感じ、ここで諦めるわけにはいかないと思いました。

改めて弟子にしてもらいたいと、再び師匠に手紙を送りました。数回送ったところで、師匠からやっと返事がきました。「子どもたちが寂しがっているから、しょうがないから戻ってきてもいいぞ」と。その連絡をもらった時、涙が出るほど嬉しかったですね。

その破門騒動をきっかけに、それまでの「刀鍛冶になれればいいや」という気持ちから、本気でプロの作家になることを決意しました。

刀鍛冶は、最低5年の修行をした後に文化庁主催の「美術刀剣刀匠技術保存研修会」を修了して、美術刀剣の製作承認を受けなくてはなりません。これでようやく日本刀を製作することができます。刀鍛冶として生計を立てるとういう事は作品である「刀」が売れなくてはなりません。

当時は10代から7~8年かけて修業をするのが一般的な中、自分は25歳で入門したので、年齢的な焦りがありました。そこで、修業は最低ラインの5年で終わりにして、刀鍛冶全体の作品コンクール「新作刀展覧会」の時にはプロとして独立できるくらいの技術を身に付けていよう、そして毎年出品し、上位の賞を取る事で名を上げていくと決めました。明確に目標を設定し、一心不乱に修業をしました。刀鍛冶の世界では「仕事は眼で見て覚えろ」と言われます。仕事中にメモは取れませんし、聞く事もできません。昼間に師匠の仕事を盗み見て、夜は弟子用の仕事場で同じ事をやってみる・・・といった毎日です。師匠は具体的な技術は教えてくれないので、仕事場の掃除をしながら、師匠と同じ鉄肌や削りカスが出るように何度も試行錯誤しました。

5年が経ち、初出品のときを迎えました。出品にあたり、師匠から「晶平(アキヒラ)という刀工名を頂くことができました。アキヒラの音は先代が若い頃に名乗っていた「昭平」から。「平」の文字は一門の直系の証です。とても有り難い命名でした。そして初出品で、賞を取ることができました。

受賞後、師匠から「いつでも独立していいぞ」と言ってもらいました。「伝えるべき事は伝えた。あとは自分次第」ということです。明確にゴールを決めたあの日から、本当に真剣に取り組んできて良かったなと思いました。

刀鍛冶の作家として独立


職人の世界では、見習い終了後、独立する技術があっても師匠へのお礼として、一定期間無償でお手伝いをする「お礼奉公」があります。私もお礼奉公をしつつ、仕事場を借りてプロとして自分の作品作りもさせてもらいました。

お礼奉公を始めて3年目くらいで、展覧会でこれまでよりさらに良い「特賞」を取れるようになりました。評価が上がるにつれ、次第に作品も売れるようになっていき、独立資金を貯めることができました。

独立する時、師匠は「この頃の気持ちを忘れるなよ」と言って、これまで自分が書いた師匠宛の手紙を手渡してくれました。弟子入りする時の手紙、破門された時の手紙全てです。自分の一番恥ずかしいときの事を覚えておけ、という師匠らしい餞別ですが、いつまでも初心は忘れずにやっていこうと心に誓いました。

独立して最初のコンクールは、新しい仕事場で製作した作品で特賞を取らなくてはと思いました。私は代々の刀鍛冶の家の出身ではないですから、何倍も良い作品を作らなくてはコンクールでは評価されないということが身に滲みていました。幸いその年のコンクールで特賞を取ることができ、作品も順調に売れていきました。

独立から10年経った時、ある展覧会で師匠が私の刀を見て「お前は、俺が一番良い時を見てきたんだな」と言ってくれました。

その一言は、師匠自身が一番良い作品を作っていた頃の技術を、ちゃんと受け継ぐことができている、ということだと解釈しました。師匠は絶対に人を褒めないのですが、この言葉には少しだけホッとしました。同時に、これからさらに良い作品作りを続けていこうと改めて決意しました。

日本刀本来の価値を取り戻したい


現在も、刀鍛冶として作品制作が仕事と生活の中心にあります。なによりこの仕事が好きなので、天職だと思っています。そのほか、講演をしたり、メディアに出演したりしています。文章を書くことも好きなので、刀鍛冶についてのエッセイ執筆も行っています。最近では、展覧会で審査員を務めることも増えてきました。

刀の制作では常に、美しく品位のある作品、切先から茎(なかご)先まで作家の神経が通った作品を心がけています。

平安、鎌倉時代の日本刀が、博物館で美しく輝いているのは、身分の高い貴族や武家が、美術的な価値を認め、ステイタスシンボルとして、またお守りや精神のよりどころとしての「信念の道具」として大切にしてきたからこそで、映画や時代劇で表現されるような単なる武器ではなかったからなのです。

1000年の歴史を繋いできたそれらの名刀のように、私の作品が1000年後にも愛でられていることを願っています。

そのためには様々な美術品や芸術に触れることも大切ですし、簡単に言えば「かっこいい」作品を創るためには自分自身が「かっこよく」生きなくてはと思っています。

また、刀自体の価値をもっと理解してもらいたいとも考えています。刀鍛冶は不思議と自分で自分の作品を褒めたりはしません。しかし、私は作品の良さを、わかり易い言葉で伝えられなくては、たくさんの方に理解を得ることができないと考えています。様々な場所で鑑賞会や講演をすることも大切だと考えております。

刀は直接的に生活の役に立つものではないので、必ずみんなが持つ必要があるものではなく、ある種の「無駄」です。でも、その無駄を楽しむことこそが文化なのです。無駄でも遺したいと思ってもらうためには、やはり誰が見ても「美しい」とか「かっこいい」と思ってもらえる作品を作ることが大事だと考えています。

また、刀は日本の伝統工芸の集大成です。研磨、木工、漆芸、金工、組紐などの匠の技のがひとつでも欠けたら作れません。刀を残すことは、日本の伝統文化を残すことでもあります。

今後は、自分の技術を後世に残していくためにも弟子を取りたいと考えています。作家が歳を取り衰えれば、作品も衰えていくからです。担い手を増やしていくためには、作品がきちんと売れて、刀鍛冶が食べていける職業でなくてはいけません。そのためにも、美しく、かっこいい刀を打ち続け、晶平の作品の良さを伝え続けていきたいです。

2019.07.11

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