イジメ、パワハラ、劣等感から逃げ、掴んだ今。 どうしようもなかった自分が見つけた生きる道。

幼少期のいじめをはじめ、仕事、プレッシャー、さまざまなものから逃げ続けたと言う阪田さん。現在は「麹王子」として「麹・甘麹」の生産・販売、高級味噌教室の開催、や、電解水素水のレンタル事業と2種の事業展開をしています。「逃げ続けたことで、道が拓けた」と話す理由とは。お話を伺いました。

阪田 真臣

さかた まさおみ|麹王子、mile field 代表
甘麹の生産・販売と、管理医療機器 電解水素水生成器のレンタル・販売事業を運営する。

自己主張をしない


和歌山県日高郡生まれです。小さい頃は整った顔立ちだと近所で有名な子どもだったそうです。母にベビーカーに乗せられてスーパーに行くと、周りにおばちゃん達が群がってくるぐらい、笑顔を振りまいて、ハートを打ち抜いていました。

小学校に入ると、アトピーだった事からいじめられるようになりました。辛かったですが、いじめっ子に立ち向かったり、状況を変えるために動く勇気はありませんでした。辛い現実から逃げるため、感情を押し殺すようになり、何も考えず、何も感じないように。それが続いたせいか、笑顔を振りまいていた小さい頃の人格は消えていました。

考える事をやめると周りに流されるまま生きるようになりました。中学生では、勉強は大の苦手で、ほとんどせず、気がつけば県内屈指のヤンキー高校へ進学してました。校門にバットを持った他校の生徒が押しかける事件があるような学校でした。高校でも自己主張は全くせず、流されるまま過ごしました。人に合わせ続けた分、敵はいなくて、不良グループとも真面目グループとも仲良くできていましたね。八方美人でいる能力を身に付けました。

卒業が近づくと、なんとなくデザイン関係の仕事に興味があるなと思っていたものの、その気持ちに向き合うことはせず、親戚が旅行代理店で働いていた、という安易な理由から、旅行の専門学校に進み、そのまま空港スタッフとして就職しました。

上手くいかず自己嫌悪に


空港の業務にはすぐに飽きてしまい、1年で退社。その後アパレル会社に転職し、紳士服の部署に配属されました。それからは、辛い日々が始まりました。

自分としては精一杯やっているつもりでしたが、仕事は上手くできませんでしたね。注意されたことをノートに書き込み、何度も確認するのですが、同じミスを繰り返していました。お客様からのクレームも多発し、1日1回はクレームを起こしていました。周りからは『クレーム王子』なんて呼ばれてましたね。

4年ほど経った頃、頑張っても頑張ってもミスがなくならず、上司からは罵倒され同僚からは変に気を使われ、精神的に追い込まれていく中、たまたまテレビで「ADHD」の特番を見たんです。すると、番組で紹介された、時間を守れない、落ち着きがない、同じミスを繰り返す、といったADHDの特徴が、全て自分に当てはまっていたんです。

その時「ああ、僕はADHDなのかもしれない」と、どこか納得してしまい、目の前が暗闇になりました。

その瞬間、ギリギリでもちこたえていた心のストッパーが外れて、自律神経のバランスも崩れ、生理現象などがコントロールできない状態にまでなってしまいました。自殺を本気で考えた時もありましたね。働ける状態ではなくなってしまったので、職場に退職願を出しました。仕事を辞めると言った時、周りから「お前が他で通用する訳ないだろ「悪い事は言わない、ここにいた方が良い」と言われました。辞めてからも自律神経は狂ったままで、転職活動をするも何十社も面接で落ちましたね。

このままだと働けない、どうすれば良いんだろ、と困り果て、自分を変えるきっかけを探すために、わらにもすがる思いでいろいろなセミナーに行くようになりました。

地獄の合宿を乗り越えて得た度胸


そんな時、ある社長と出会い、紹介された自己啓発セミナーに参加しました。山奥のホテルに缶詰にされ、地獄のような3日間でした。声が枯れるほど自分の目標を叫ばされたり、メンタルトレーナーから「お前なんか泥だ」「お前なんか役に立たないんだよ」と理不尽な罵声を浴びせられたりと、精神的にも肉体的にも追い込まれていきました。脱走者も続出する中で、泣きながらもなんとか最後まで耐え抜きました。

そんな研修も、終わった後は大きな達成感を得る事が出来、同時に、「人生でこれ以上苦しい経験はそうないはずだ!」と、どん底だった精神状態は嘘のように改善しました。心の強さといいますか、ド根性は身につける事が出来ましたね。

何とか転職活動も終え、あるガラスの卸売会社に就職しました。これまでの職場では頼まれたことは全て引き受け、断れない自分にコンプレックスを感じていましたが、新しい就職先では、理不尽な依頼に対しては断ることができるようになりました。断ってみると、案外自分がやらなくてもよかった仕事も多く、思っている以上に頼んでくる相手は自分のことを頼っている訳ではないんだと気がけたのは発見でしたね。働くうちに、なりたかった俺はこんなんじゃないと、初めてハッキリ考えることができ、1年で退職。を決意しました。

次の転職先を考えている中で、自己啓発セミナーを紹介してくれた社長に相談しました。すると「生まれてから今に至るまで自分がどんな人間だったかを思い出してひたすらノートにメモしなさい」と言われました。そこで、3カ月ほどかけて、毎日ノートを書き続けました。そのお陰で、小さい頃、スーパーで笑顔を振りまいていた、イジメられる前の人格を思い出すことができました。また、高校卒業時になんとなくデザイン関係に仕事の興味があったことも思い出しました。

そこで、デザイン関係で仕事を探していると大阪にある広告代理店を見つけました。しかし応募条件に大卒と書いてあり、「あーダメだ…」と思いました。諦めきれない気持ちを抱える中、本屋でとある本を見つけました。その著書には中卒で大手通信会社に入社した半生が書かれていて、学歴がなくて苦労している部分が自分の境遇と重なり、夢中で読みました。

その本の中に、就活時に面接先の会社社長に直筆の手紙を送り「自分が入社した後はこんなにメリットがあるぞ」と分厚い企画書を同封して履歴書を送り、入社にこぎ着けたエピソードがありました。「これをすれば絶対面白いと思ってもらえる、自分も出来損ないから這い上がってやる!」と息巻いて大阪の広告代理店に直接履歴書を送りました。

すると奇跡的に面接をしてもらえることになりました。しかし、面接時間はたったの10分。絶対落ちたなって思いましたね。しかし、その翌日、電話で「明日から来て」と言われました。飛び上がりましたね。やりたいことが一つ叶ってうれしかったです。地獄のセミナーのおかげで、頭のネジがどこか飛んでいたのかもしれません。

人当たりの良さに自信をつける


広告代理店に入れたものの、配属先はデザインの部署ではなく広告営業でした。人生で一番やりたくないと思っていたので、配属先を聞いた時は心底嫌でした。

それから2年後に福岡支社立上げとして単身で大阪から福岡に行くことになりました。福岡支社といっても自宅兼事務所に1人という大変な状況でしたね。その後、会社は大手IT企業にM&Aされ、私もそのまま大手IT企業にて営業として働くことになりました。

移籍後も営業が嫌で嫌で、最初は営業先で商品を売り込む事が出来なくて苦労しましたね、でも売らないと怒られるしなぁ、と考えに考えた結果、相手の会社の話や自分の身の上話をずっとするようにしたんです。

本来であれば、一刻も早く本題に入りたいと考えるところですが、ゆったりとした口調で「いやぁ、御社の雰囲気良いですよね!」と話していると、相手も警戒心を解いて話に乗ってくれるようになって、普通の営業マンが30分ぐらいで商談を終わらせるところを、3時間は雑談していましたね、帰社したら毎回怒られてましたが。

その結果、会社と会社ではなく、人と人の信頼関係を築いて契約を取れるようになったんです。商品を売るのではなく、自分を売る事で結果がついてきたのかなと思っています。営業成績で賞を取る事も出来ました。

順調に結果を出せていましたが、働く環境はフィットしませんでした。マニュアル化された仕事や、物事の善悪よりも社内政治が重視される大企業の働き方になじめなかったからです。

現場と上層部とで大きな温度差があることも感じていて、上司に意見したりもしましたが、仕事だから割り切るべきだと返されていました。本当はそうじゃないって誰もが思っていたはずなんですけどね。YESで塗り固めながら会社のために生きるのは合わなかったので、会社を辞めようと思いました。

次の働き方として、他の会社への転職は選択肢から消しました。組織である以上、最終決定権は社長にあり、自分の意見を完全に通せないと思ったのもあります。また、自分のスタイルの営業経験を活かすなら独立した方が良いも思っていました。それで仕事がもらえる自信はあったのです。あとは何を売るかを決めるだけでした。

そんなことを考えている中、営業で訪問したお客様のお店で、出してもらった水が凄く美味しく感じたんです。当時はまだ流行ってなかった水素水でした、美味しかっただけでなく、定期的に飲むうちに病院でも治らなかった中学から患っていた逆流性食道炎がほぼ完治しました。

そんな水の効能に衝撃を受け、こんなに素晴らしい製品が何故広まっていないのか、もっと世に広めるべきだと思いました。そして、「これだ!これを売ろう」と決めました。

それからはお金を借りたりと独立する準備を進めていきました。準備が全て整うと、会社に辞める意向を伝えました。周りからは大反対されましたね、水の仕事をやると報告したら10人中10人が「それだけは辞めた方が良い」と言ってきましたね。

でも、やるなら自分が体感して納得した物じゃないと何をやっても上手く行かないと思っていたので、商品を変えようとは思いませんでした。起業への不安や恐れは不思議と一切なかったですね。

融資を元手に国内で最も老舗であるメーカーに依頼をし、代理店としてではなく、自分が製造元としてレンタル事業を始めました。

独立してしばらく経った時に、お水のレンタル事業に加えて何か良い物はないかと模索していた矢先、お世話になっていた社長さんからの紹介で「麹」に出逢ったんです。

麹は日本古来の発酵文化の主役です。身体が虚弱だったお陰で直ぐに虜になりました。甘酒や糠床などの発酵食品は苦手だったんですが、甘麹を味わった時にそれまでの概念が全て覆りました、水と出会ったときと同様、間違いなく売れると確信しましたね。

また麹造りの技術を持つ人たちに与えられる麹士の有資格者は全国で250人程いて、そのうち男は世界で5人ほど、内2名は海外の方でした。それを聞いて、「麹王子」として売り出していこうと決意しました。そうすれば、話題性もあり、より多くの人に商品について知ってもらえると思ったのです。

誰しもが自分に合う環境を見つけられるように


今は、甘麹・塩麹・醤油麹の生産・販売事業と電解水素水サーバーのレンタル販売事業を並行して行っています。

甘麹のクオリティには自信があります。米麹・炊きあがったご飯・電解水という甘麹の3つの原料の中で、最も軽視されがちな水にこだわっているからです。自社の電解水素水を用いており、自分が美味しいと思えるまで1年間試行錯誤を繰り返し、今の甘麹を作ることに成功しました。水素イオン濃度のバランスが良い水のおかげで、糖度が非常に高いのですが口当たりがまろやかな甘麹に仕上げています。

お陰様でテレビに取り上げてもらうことがあり、放送後2日で甘麹が1,000個売れて生産が追いついていない状態です。

電解水素水も甘麹も、アトピーや便秘、肌荒れ、疲れやすい身体などの体質改善にとても効果が期待出来、その効果は科学的に証明されています。自社の商品を売り続けて、多くの方の健康維持や仕事のパフォーマンス向上につながればいいなと思っています。

今後は、この甘麹を海外にも広めていきたいですね。ニューヨークでは日本酒ブームや発酵食ブームがあり、海外の方々の反応をこの目で見てみたいです。

一方で、自分の経験を次世代に伝えていきたい思いもあります。自分は今まで業界がバラバラで一貫性のない転職を繰り返してきました。また、困難に直面した時に、耐えて乗り越えようとするのではなく、逃げ続けた人生だったとも思っています。しかしそれでも、現在は自分の好きな仕事をやりたいようにできています。

逃げるという言葉にはネガティブなイメージがついていますが、僕は逃げて全然OKだと考えています。昔から「耐え忍ぶ」「逃げてはいけない」という教育が潜在的に刷り込まれていますが「逃げる」を「負け」や「諦め」ではなく「環境を変える」と捉えれば良いと思います。

環境が変われば、いろいろな人との出会いが増え、価値観も変わり、趣味も思考も変わりポジティブになります。その結果、相性の良い人や環境に出会い、自分の能力を最大限に発揮できる、良い化学反応を起こせる場所が見つかると思います。

あの時、あの場所で、あの本に、あの人に出逢ってなければ今はありませんでした。僕と同じような事で悩んでいる人たち、学生さん、社会人の方々へ、逃げることは決して悪くないんだよ、と伝えていきたいです。

2019.06.13

インタビュー | 種石 光ライティング | 伊藤 祐己
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