3つの仕事で円を作り、お金も人も循環させる。やりたいことを全てやって生きるために。
プロレスラー、会社・道場の経営と、並行して様々な活動を行う坂口さん。同時並行で複数事業を行なっている背景にはどんな思いがあるのか。お話を伺いました。
坂口 征夫
さかぐち ゆきお|DDTプロレスリング所属、坂口道場横浜代表、株式会社坂口組代表
柔道、空手、総合格闘技など様々な格闘技を習い、現在はプロレスラーとしてDDTプロレスリングに所属している。坂口道場横浜を経営しながら、水道管工事会社の坂口組の代表も務めている。
父の名前が重い
東京都で生まれ育ちました。父がプロレスラーで、よく道場に連れて行かれました。物心つく前から道場で遊んでいたので、自分も大人になったらプロレスラーになるんだと当たり前のように思っていました。
中学生になった時、父の勧めで柔道を習い始めました。将来プロレスラーになるためにも、柔道で力をつけたいと思っていました。
柔道の関係者は父のことを知っている人が多く、常に比較されました。試合をしていると、周りから「坂口選手の息子」という目で見られます。でも、僕は大柄な父とは対照的に小さくてガリガリで、強くもありません。しだいに「坂口」という名前が重荷になり、嫌になっていきました。
高校卒業後は父からの勧めで体育大学に進学し、レスリング部に入る予定でした。しかし卒業前に喧嘩したせいで、その話が立ち消えになりました。当然、父にはものすごく怒られました。
このとき、これまで押さえ込んできた父への反発心が爆発し、父の敷くレールからは外れる決意をしました。プロレスラーになるのはやめて、肉体労働でもしようと思い、土木の専門学校に通うことにしました。早く手に職をつけて家を出て、坂口の名前と決別し、父と関わりのない世界で生きたいと思ったのです。
やっぱり闘いが楽しい
専門学校を卒業してからは、土木関係の仕事、壁紙屋、とび職と職を転々としました。1〜2年勤めておおまかなやり方を覚えたら次の仕事に移る、ということを繰り返していました。転職するうちに、建物を建てる過程を全部自分でできるようになりたいと思うようになりました。よくばりなんですよね。そして27歳のときに公共工事や道路工事などを手がけるワンタイ建設株式会社に就職しました。
社内に空手をやっている先輩がいて、坂口もやらないかと誘われました。上司の誘いだからという理由でなんとなく道場に行き始めましたが、すっかり夢中になってしまいました。週のうち3、4日は仕事の後に道場に通いました。中学のころやっていた柔道とは違い、突きや蹴りができるのが新鮮で刺激的でした。それに、自分がプロレスラーの息子であることを誰にも言っていなかったので、特に注目も期待もされてなく、気が楽でした。
そんな中、自分よりも明らかに弱そうな相手に手も足も出ずに負けることがありました。これまで、喧嘩ではほとんど負けたことがなかっただけに、負けたときはものすごく落ち込みました。ただ同時に空手の奥深さを感じ、面白いとも感じました。次は絶対勝ってやると思って、また練習を頑張りました。
目いっぱいに練習をして、次の日は足を引きずりながら現場に行くこともありました。「月謝を払いながら、なんでここまでしなきゃいけないんだろう」なんて思いながら。しかし、そんながむしゃらな毎日が楽しかったです。
初めての大会に出場するとき、先生に「お前はまだ勝てない」と言われました。すごく腹が立ち、「このやろー、絶対勝ってやる」と悔しさを原動力にして試合に臨みました。
その結果、決勝戦に進出することができました。最後は体重判定で負けましたが、周りの人は自分が決勝戦までいくとは思っていなかったので、見る目ががらっと変わりました。自分の実力を出して見返すことができたのでうれしかったですね。その後、2回目の大会では優勝を果たしました。
3足のわらじを履くことに
30歳のときに、父が柔道・総合格闘技・レスリングを教える道場を新しく建てることになりました。弟から、「資金面は父と自分が工面するから、兄貴はプロ選手になって活躍して、この道場を有名にしてほしい」と言われました。
ちょうどそのころ、柔道時代の先輩に誘われて、総合格闘技の道場に行きました。柔道と空手をやっていたので、なんとかなると思ったのですが、パンチすら当たりませんでした。
笑われて、ゴミのように扱われたことがすごく悔しくて、「絶対強くなってやる」と思いました。そのために、他の格闘技も学ぼうと考え、空手に加えて柔術もこっそり習いに行きました。毎日空手と柔術の練習に行って、週一で総合格闘技の道場に通い練習の成果を試す日々を繰り返していました。アマチュアのプロ査定試合に出場し、勝利した事で、33歳のとき総合格闘家としてプロデビューしました。
格闘技をしながらも、仕事は並行して続けていました。理解のある環境だったので、ありがたかったです。社長や従業員がチケットを買って応援しに来てくれたり、平日に試合が入ったときは試合を優先させてくれました。総合格闘家、会社員、道場の運営と3つの仕事を同時にこなす日々が続きました。
総合格闘家を3年続けたところで、首を怪我して満足に動けなくなってしまいました。同じ時期に、会社で信頼していた人が亡くなってしまったんです。その人が欠けたらこの会社は回らないと思い、現役を引退して仕事に力を入れることにしました。
39歳のころ、社内でワンタイ建設の他にもう一社作ろうという話が持ち上がり、その社長を任されることになりました。そこで、坂口組という会社を設立し、水道管工事を主に手掛ることになりました。
プロレスを通して父との絆が蘇る
総合格闘家としての引退を宣言した年の終わりに、格闘技団体の方から試合に出ないかと誘いがありました。休んだ分コンディションがよくなっていたので、総合格闘家として一試合限定で現役復帰しました。
その後、DDTが運営していたハードヒットという大会に出場しましたが、その試合後に乱闘になり、自分も苛立ってしまっていたため、対戦相手にドロップキックをかましてしまいました。その試合をプロレス団体のDDTプロレスリングの社長が見ていたらしく、後になって呼び出されました。
怒られるのかと思って行ったら、「この前の試合でプロレスの技を使っていたね。プロレスをやりたいんじゃないの?」と聞かれました。プロレスラーは子どもの頃からの夢だったので「はい、やりたいです」と即答しました。それからトントン拍子に話が進み、DDTにプロレスラーとして定期参戦するようになり、3年後には正式にDDTの所属になりました。一度投げ出した道とはいえ、夢がこうした形で実現し感慨ひとしおでした。
総合格闘技をしていた頃は、ただ敵を倒せばいいだけだったので、お客さんは関係ありませんでした。しかし、プロレスでは360度お客さんに取り囲まれていて、自分のふるまいをコーナーに控えているところから全て見られています。ある意味で全員が対戦相手です。ただ勝つだけではなく、魅せ方も意識しないといけません。昔、父が「馬鹿にはプロレスはできない」と言っていましたが、実際に自分がプロレスのリングに立ってみてその意味がよくわかりました。
プロレスをしていると、お客さんから「坂口!」と名前を呼んでもらえたり、「いい試合だった」と声をかけてもらえたりします。お客さんに見てもらっている、楽しんでもらえているという手応えがあり、プロレスの奥深さと楽しさを感じました。
プロレスラーになってからは、父から「試合を観た」とか「頑張れ」といった連絡をもらうようになりました。たくさん会話をするわけではないですが、自分が出たDDTの試合は全部観てくれていて、素直にうれしく思いました。
プロレスをやるようになったことで、父の大変さや選手としての強さがわかるようになり、父のことを今まで以上に尊敬するようになりました。
やりたいことは全部やる
現在は、プロレスラーのほかに、会社と道場の経営をしています。平日は会社と道場、休日はプロレスの試合に出場するという日々を過ごしています。休みはほとんどないですね。と言うか、あえて作らないようにしています。空いている時間がもったいないし、暇だと何をしたらいいかがわからないんですよ。
プロレスと会社・道場の経営は一見バラバラの活動のようですが、実は全てが円になって循環させています。例えば、坂口組のお客さんがプロレスを観にきてくれたり、プロレスを観にきてくれた人が道場に通ってくれたり。また、プロレスラーとして知名度が上がり、経歴がネットに載っているため、会社でも信頼して仕事を任せてもらえることが増えるなど、良い相互作用が生まれています。
その結果、円の中にいる人たちにも良い効果を与えることができています。例えば、道場に通う総合格闘技の世界チャンピオン。彼は大学在学中にうちの道場に入りました。大学卒業後は有名な大学を出ているにもかかわらずうちの会社に入社しました。土方仕事をしながら格闘技をし、念願の世界チャンピオンにまで上り詰め、ジムも作りました。こんなふうに、自分が作った円を活用して成功する人たちが出てくると、自分がやってきたことは間違っていないのだと感じます。
これからも、せっかく生まれてきたんだから悔いのないように、やれることは全部やりたいです。この考え方は、土木や壁紙屋やとび職を転々としていた時から変わらなくて、やっぱり欲張りなんですよね。3つの仕事は全部が本職だし、全部トップに立っていたいんです。今はプロレスと会社と道場の三本柱ですが、最近は、なんとなく喫茶店をやりたいと目論んでいます。やりたいことはどんどんやって、円をさらに大きくしていきたいです。
2019.04.15