みんなで旨い酒を飲むために。築き上げた繋がりで最高の大会を目指す。

DDTプロレスリング所属のプロレスラーである高梨さん。入団当初は体格などのポテンシャルで劣る中で、他の選手に負けない「売り」を作るため試行錯誤したそうです。そんな高梨さんがたどり着いた、レスラーとしての生き方とは。お話を伺いました。

高梨 将弘

たかなし まさひろ|プロレスラー
DDTプロレスリング所属レスラー。2003年にデビューし、KO-D無差別級王座やKO-Dタッグ王座など数々のタイトルを拝受。2014年よりユニット「酒呑童子(しゅてんどうじ)」を結成。自主興行やイベントのプロデュース業も行う。

運動嫌いがプロレスに熱中


千葉県東金市で、3人兄弟の長男として誕生。大人しい性格で体を動かすことが好きではなく、そのせいか体が弱く、運動音痴でした。小学校入学後すぐ、心配した両親が人並みに運動できる子になるようにとスポーツクラブに入れられることに。ただ、運動嫌いは直らず、スポーツクラブのハイキングに参加したときは、あまりにも嫌すぎて、泣き出し、親に迎えに来てもらって途中で帰りました。

学校でも大人しく、クラスの中では存在感がない方で、みんなでかくれんぼすると、隠れていないのに誰にも見つからないほど。あまりに話さなかったので、同級生たちからは「何を考えてるかわからない」と言われていました。

体を動かすのは嫌いでしたが、プロレスは好きでよく見ていて、体格のいい大人たちがリングの上で戦っている非日常的な光景にワクワクしていました。ただ見るのが好きだったので、レスラーになりたいとは思っておらず、戦隊ヒーローを見る感覚と同じで、プロレスは別世界のできごとと捉えていました。

中学校に入ると、プロレス番組を毎週録画して本格的に見るように。部活に入っていなかったので、空いた時間はほぼプロレスにつぎ込んでましたね。プロレス雑誌やプロレス漫画、スポーツ新聞などを読んで情報収集するようになりました。

普通のスポーツはルールを覚えないとわからないことが多いですが、プロレスは何も考えずに見ていても、何が行われている場面なのかわかるところが良かったです。例えば試合中に椅子で殴っているところをみたら、あの選手は悪者だってわかります。

また、想定外のいろんな出来事が起こるのも好きでしたね。よくわからないやつが乱入してくるなど。何でもありで、あり得ないことが起こり、それが受け入れられてしまう非日常感にワクワクしていました。

中学3年頃からプロレス界に体の小さな選手もデビューし始め、プロレス専門の学校もできました。そんな状況の変化からプロレスラーになることを身近に感じ、もしかしたら自分もなれるかもしれないと思うように。

プロレスを見る機会を増やそうと、後楽園ホールに近い高校に進学。放課後は毎日のように後楽園ホールに行きました。ただ、毎回観戦するお金がなく会場には入れなかったので、入り口でレスラーの出待ちをすることが多かったです。レスラーがバスから降りて会場に入るところを遠巻きに眺めて、「今日も頑張ってください」と念を送って満足してましたね。

人に支えられ開かれたレスラーへの道


高校卒業後は神戸のプロレス学校に進むことに。両親はどうせすぐに戻ってくると考えていたようで、すんなり行かせてくれました。

半年ぐらい神戸で練習して、その後海外で1年練習しました。他の選手と比べて、体格が小さく、運動神経もよくなかったので、周りの練習生との差を痛感させられる毎日。

このままでは周りの人たちに勝てないと思い、学校をやめることを決意しました。しかし、プロレス自体をやめるつもりはなく、学校で一通りプロレスの基礎は学んでいたので、ここじゃなくても、どこかではプロになれるかもしれないと思っていました。そこで、日本に帰ってゼロから他の団体のテストを受けようと考えました。

学校のメンバーには本心を言えなくて、普通の仕事をすると言ってやめることに。すると、先輩の1人に「お前どこの団体を受ける気だ?」と聞かれました。自分の考えを全部見透かされていたんです。

どこを受けるかは決めてないと話すと、「いきなり他の団体受けると感じ悪いから、1年待て。その間練習見てやるから」と言われました。自分のことを考えて動いてくれていることがわかったので、先輩の言うことに従うことに。日本に帰ってからは体力づくりに励み、1年後、その先輩からDDTプロレスリングを紹介してもらいました。テストに無事合格し、入門3カ月後にデビューしました。

DDTには若手のデビュー戦の対戦相手を担当するレスラーがいて、その選手に潰されれば、レスラーとして認めてもらえないという慣習がありました。そのため、デビュー戦はかなりプレッシャーのかかる試合でしたが、なんとかつぶされずに戦い抜き、相手のレスラーに「お前は合格だ」と言われたときは、うれしさよりも安堵感が強かったです。

積極的に外に出て築いたプロレス観


デビュー後は、セールスポイントがないことに悩みました。体が小さく、運動神経も良くなかったので。ポテンシャルで周りのレスラーに劣っているのに、周りと同じことをやっていても居場所がなくなるのは目に見えている。そこで他所に出て行って経験を積んで、他のレスラーにはない自分の武器を見つけようと考えるようになりました。

積極的に他の団体への参加を志願している時に社長から「今度自分が参戦する他団体に一緒に参戦するか?」と声をかけてもらいました。そこはリングの代わりにマットの上で行うプロレスを初めて打ち出した、女子プロレス団体でした。

その後、継続して出場させてほしいとその団体の代表に連絡をすると、快く受け入れてくれました。女子プロレス団体で、対戦相手がいなかったので、自分が希望した選手を対戦相手として呼んでもらうこともありました。

他団体での対戦相手は、年齢や体格、所属する団体もバラバラ。毎週異なる相手と試合をすることで、さまざまなプレースタイルを学ぶことができました。また、対戦相手を探し、試合をお願いすることを通じて、業界内での人間関係のネットワークも構築されていきました。

マット上のプロレスという斬新なスタイルを打ち出してきた団体の代表は「私はやりたくてやっているのではなく、他の人がやらないから、このスタイルにしただけだ」と言っていました。その言葉を聞き、周りとの競争に勝つ為には他の人がやらない事で勝負しなくてはと感じ、独自のプロレススタイルを目指すように。

違う視点で見るプロレスの面白さ


27歳のとき、ひざを故障。試合に出られなくなることに。収入が途絶えるのは困るので、1年ほどプロレスの裏方の仕事をしました。団体の運営する飲食店や売店スタッフの仕事、プロレス中継の解説やリングアナウンサーなどさまざまな仕事を受け、生活費を稼ぎました。

裏方仕事をやったことで、プロレスがより好きになりました。立場が変わったことで、プロレスの違う良さが見えてきたんです。例えば、一歩離れた視点で見るとリング上と観客の温度差を感じ、選手のモチベーションや得意技が必ずしも会場の盛り上がりに繋がっている訳でないないなと思いました。怪我を経験したことで、お客様の気持ちにもう一度なれたのだと思います。

復帰後は海外に行く機会が増加。最初はDDTから派遣されてアメリカに行き、それから他所の団体に呼ばれてタイに行きました。タイではプロレスがほとんど知られておらず、だからこそ、何も知らない土地にプロレス文化を根付かせていく感覚があり、すごく面白かったですね。

その後、東南アジア各国で開催されるプロレスの大会に呼んでもらえるようになりました。プロレスの大会は開催のために最低20人ほどのレスラーが必要ですが、プロレスが盛んでない東南アジアは自国の選手でまかなえないんです。そこで香港や台湾、マレーシア、フィリピンなどの国々で選手の貸し借りを行います。自分も各国から声がかかり、いろんな国で試合をすることに。いろいろな国の大会に出場することで、国籍を超えたネットワークがどんどん広がって行きました。

海外でできた仲間は言葉は通じませんが、大会が終わった後に「今日良かったね」と一緒に酒を飲み交わすのがたまらなく好きでしたね。

好きな仲間と最高の試合を作り続ける


今は、酒吞童子(しゅてんどうじ)という3人組のユニットの活動に力を入れています。ユニットは5年前に結成され、チームとして試合を戦ったり、イベントを主催したりしています。このユニットを作り上げたことで、初めてDDTプロレスリングに居場所ができた感覚があります。

ユニットでの自分の役割は、大会を開くときの選手のブッキングが大きいです。プロレス学校の同期や、女子プロレス団体で試合をしていたのときの相手選手、東南アジアの大会に出場した際に知り合った選手など、これまで構築した人脈のネットワークを活かし、選手を呼ぶことができています。ユニットのメンバーも自分の人脈を信頼し、任せてくれているのでやりやすいですね。

ユニットでの活動と合わせて、デビュー15周年の自主興行を行ったりもしています。興行にはこれまでお世話になった方や、つながりを持った方々にたくさん出ていただいています。普段の大会も楽しいですが、自分の人間関係を元に開く大会は格別ですね。自分を振り返り感謝する場があるのだと思っています。

自分のプロレス人生は、さまざまな人に支えられてきました。プロレス学校をやめるとき面倒をみてくれた先輩や、DDTプロレスリングの先輩たち、自分をレギュラーに使ってくれた女子団体の代表など、本当にお世話になった人がいっぱいいます。

そんなお世話になった人たちに自分が作るイベントや大会に協力してもらうこともよくあります。非常にありがたいですし、成功させなくてはという責任を感じてイベントや大会を行ってます。

全てが終わった後にみんなで、昔話やその日の大会の話を肴に、旨い酒を飲んで充足感を味わう。そんな体験ができれば最高だと思っています。そのために、今後も既存のネットワークを大切にしつつ、新しいつながりを作り続けていきたいです。

2019.04.08

インタビュー | 種石 光ライティング | 伊藤 祐己
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