経験を活かした前例のない仕組みづくり。
病気や災害を受け入れ、経験を社会に生かす。

病気や被災で死を間近で感じ、「何が起きても不思議ではないから、後悔しない生き方をしよう」と考えるようになった有馬さん。起業した会社で、災害対策や地域活性化事業に取り組んでいます。後悔しないために有馬さんがやり遂げたいこととは何なのか、お話を伺いました。

有馬 朱美

ありま あけみ|G72災害支援プロジェクト代表
地域活性化を行うGROWbyGLOW株式会社、災害支援を行う株式会社ミューチュアル・エイド・セオリーの代表取締役社長。司法書士事務所、経営コンサルタント、商社、人材派遣会社を経て、雲仙普賢岳の噴火による被災を機に起業。地域の情報を中心に発信する独自のクロスメディアを構築し、地方自治体と共に地域活性化に努める。2014年に防災・災害支援に関するプロジェクト「Guardian72」をスタート。

夢を追う途中で病気に


長崎県島原市で生まれました。小学校から高校までは水泳、ソフトボール、テニスとスポーツ大好きで、本当に真っ黒に焼けていました。活発で負けず嫌いな性格でしたね。

高校生の時、音楽が好きになりバンドを始め、仲間の影響でラジオを聴くようになりました。投稿したハガキが読まれることを楽しみに、毎回カセットで録音していました。試験勉強をしながら深夜番組を良く聴いていましたね。

ラジオには映像がなく、語りと効果音だけで物事を伝えられるところがすごく面白いと思いました。自分もこんな風にいろいろな物事を表現できるようになりたいと思い、ラジオパーソナリティーに憧れるように。聴いていたラジオ局によると、ラジオパーソナリティーになるためには短大卒以上が条件でした。私はその条件を満たす短大卒業の資格をとるために、高校卒業後は進学を選びました。

両親は進路に反対しましたが、言い出したら聞かない私は、学費に加え生活費を自力で稼いで通うことにしました。まず、知人の紹介を受け司法書士事務所で働きました。仕事は楽しかったのですが、その収入だけではとても生活できず、平日は夜遅くまでコールセンターやファーストフード店のバイト、土日には結婚式の司会と、仕事をいくつも掛け持ちしていました。

そんな時、突然右手に力が入らなくなり、更にペンが持てなくなりました。お箸も使えなくなり、これはおかしいと思って病院に行くと、検査をしたほうが良いと言われて入院しました。

詳しい病名や原因がわからないまま、症状は悪化していきました。やがて右手が全く動かなくなり、握力はとうとうゼロに。腕を上げると脈が打たなくなり「もう、このまま右手がダメになるかもしれない」と覚悟しました。

何度か入退院を繰り返す中で、歩くのも困難になり大学病院で検査。その結果、胸郭出口症候群とヘルニアになっていると判明しました。手術が決定し、第一肋骨を切除しました。

6カ月程の入院生活とリハビリで落ち込んでいる時に、友人がナポレオン・ヒルの『成功哲学』という本を贈ってくれました。読んでみて、前向きな思考に大きな影響を受け、もしこのまま右手が使えなくなっても、左手がある。基本的なことはすべて左手でできるようになろうと思いました。

そこで退院後、情報科学の専門学校に入学し、経理とワープロを学びました。ワープロなら右手が使えなくても、左手でカバーできると考えて、様々な資格を取得しました。

関係性を大事に前例のない企画を実現


専門学校を卒業すると、経営コンサルタントの会社に就職しました。そのうちに、ラジオパーソナリティになりたいという夢よりも働く事が楽しくなり、「稼ぐ為に頑張る。他の人が出すのに1年かかる結果を、私は3カ月で出そう」と考えて仕事に没頭しました。

入退院を繰り返していたので医療費と生活費の支払いが大変で、より稼げる仕事を選んでいきました。仕事選びは大変でしたが、確実にステップアップしている実感があったので楽しかったですね。しかし、どの仕事もトップとの意見が合わなくなったり、物足りなくなったりして、結局転職を繰り返しました。

そののち、転職の多い経歴をプラスと捉えてくれるのは人材業界だと考え、大手人材派遣会社に絞って転職活動をし無事に採用されました。はじめは派遣スタッフの募集から、現場への派遣までを一貫して行う営業を担当し、イベント部、新規事業部と異動していきました。

特にイベント部では、各企業のバビリオンやビジネスショー、モーターショーなどの運営を担当することが多くなり、現場で働くスタッフが輝きながら成長できるよう考えてマッチングを行いました。

それまでは、現場と運営側の話が食い違い、問題ばかり発生していました。私は、まず現場を知る事が重要と考え、常に現場に入り問題を解決する仕組みを構築して行きました。また、スタッフの報酬をどこよりも高くして、その報酬に見合った仕事を確実にしてもらうことで、企業からの受注とレベルの高いスタッフを確保し実績をあげていました。

前例のないことをするので、売上は上げても社内からは評価されるどころか、いつも浮いてしまいました。仲間はずれにされパワハラにあっているような状態でしたね。

でも、社外の人脈はどんどん広がり強くなって、新しい仕事へとつながりました。人と人とのつながりで仕事ができていくことを実感しましたね。誰の紹介で今の仕事に至り、結果を出せたのか忘れないよう、常にスケッチブックに人脈図を書きながら、人との関係性を大事にするように努めていました。

あるとき、営業先の大手化粧品会社に派遣スタッフを多く採用して欲しいと考えて、新商品の開発に関する大規模な企画を持ち込んでみました。何度かのプレゼンを重ねて提案は採用され、実施に向けて動き始めることに。前例がない仕事だったので、社内での賛同は全く得られず完全に孤立しました。何度も窮地に追い込まれ、もう駄目、もう駄目だと悔し泣きをする日々が続きました。

しかし、これまで築いた派遣スタッフや外部メンバーが協力してくれ、企画を進めていくことができました。結果として、企画は成功でした。依頼してくれた会社役員の方に「これは有馬さんの熱意でできたことですよ。歴史に残ります」と言って頂いた時は、本当にうれしかったですね。悔し涙が嬉し涙に変わった瞬間でした。

一枚の紙の企画書から始まったことが現実になったことに、すごく感動しました。大勢の人に助けてもらえたことから、人との関係性の大事さを改めて感じましたし、最後まで諦めなければ実現することを学びました。

仕事は波瀾万丈ですが、楽しかったです。しかし、また長期の入院が必要になってしまい、会社に長期の休暇申請をしました。すると、尊敬する上司からいきなり「有馬ちゃん解雇よ。病気をする人はいらない」と言われたんです。会社に売上で貢献していると思っていたのに、なぜそんなことを言われるのか本当に悔しくてたまらなかったのです。結局、入院するために退職することになりました。

来るものを受け入れ、悔いなく生きる


そのころ、長崎の雲仙普賢岳が噴火。大火砕流が発生し、実家の家族は避難生活を余儀なくされていました。同時に父が入院し大変な状況だったこともあって、長崎へ帰郷することにしました。

仮設住宅に両親と暮らしながら仕事を探しましたが、被災地のど真ん中で私にできる仕事はありませんでした。加えてすでに20回以上の入退院を繰り返していたために、雇われて働くよりも自分の体調を考えて仕事できる環境を作ったほうがいいと思いました。独立を選ばざるを得なかったですね。

立ち上げ資金は手元にあった現金わずか20万のみ。火砕流が頻繁に発生する中で、何ができるかを考えたとき、これまでの経験を活かし企画をやろうと思いました。しかし、それだけでは稼げないので、仕入れなく、即現金に繋がる方法を考え、自分の服やアクセサリーなどを商品にしたリサイクルショップも開くことにしました。リサイクルショップと企画事務所の二足の草鞋で事業をスタートしました。

独立からしばらくして、実家が土石流でとうとう被災しました。その時、私はたまたま実家に居て車で逃げたんです。迫り来る土石流に向かって逃げざるを得なくて、巻き込まれることを覚悟して必死で走りました。そこで命拾いをしたことで、「自分が生かされたのは何か意味がある」と思うようになりました。

また、被災した地元を目の当たりにしたことで、「復興のために何か私にできる役割がある」と感じたんです。そこで、まずは地域活性化のための情報発信のひとつとして地域情報誌をスタートさせました。

様々な被災地の情報がいきかう中で、実情と異なる情報が発信されていることが多々あると感じていました。誰が発信したかわからないような情報ではなくて、顔の見える人が責任を持って発信している情報があってもいいはずだと。そう思って、書き手となってきちんと顔を出す情報発信をやろうと考えました。

この地域情報誌発行のきっかけは、地元商店街で、新聞に挟まれた折込みチラシを見て「このチラシをどれだけの人が見ているんだろう。捨てられているよね。一社あたりいくら使っているんだろう」と思ったことがきっかけでした。この広告主を集めてテーマを設け、保存できるような誌面にすれば面白いと閃いたんです。

被災地で発行する地域初の情報誌は、デザイナーと2人で企画、スポンサー営業、取材、執筆レイアウトを全て行いました。読む人に笑顔になってもらえるよう、表紙には地元の結婚式場や写真店にスポンサーになってもらい、花嫁さんの写真を掲載。その甲斐あってか地元の話題となり、既存のチラシよりも広告効果が高く売上に即つながると、徐々に広告主が増えていきました。

少しずつ事業が安定してきた35歳の時、ストレスのため狭心症になり入院、手術を受けました。その後、さらに体調が悪化し、38歳のとき膠原病をはじめとする複数の病気の診断を受け、主治医から余命5年を宣告されました。

入退院を繰り返す中で、同じ病で同年代の方々が膠原病の合併症で次々と亡くなっていくのをみて、死を覚悟しました。

ただ、いつまでも悩んでいる訳にもいきません。「悩んでいる時間は無駄だ」と考えるようになりましたね。いつ死ぬのかわからないのであれば、残りの人生をどう生きるのかを考えよう、と。今回の病気も、以前巻き込まれかけた土石流も災害も、全部受け入れ肯定しながら、後悔しないように生きようと思いました。

自分だからこそできることがある


後悔しないように生きようと決めると、もっとできることがあるはずだ、より多くの人に情報発信をして島原に人を呼びこみたいと考えるようになりました。そこで、情報誌が届かない地域のラジオ局に企画を持ち込みました。誌面とラジオ番組で情報発信することによる相乗効果を狙ったのです。

すぐに実現し、毎週日曜日、1時間枠の番組を受け持つことに。地域情報誌で取り上げた人が出演するコーナーを作り、さまざまな地元の情報を発信するほか、自分の大好きな音楽を流しながら番組を展開し、リスナーがどんどん増えて行きました。思えば、ラジオパーソナリティーになりたくて短大に進学したはずが、いつの間にか時が過ぎていました。こんな形で高校生の頃の夢を叶えることができるとは思いませんでした。

さらに、ケーブルテレビとも連携。商店街の空き店舗に放送スタジオを開設し、各学校の放送部に作ってもらった番組を放送するなど、さまざまな企画を行いました。
その頃、情報を発信する上で考えていたのは、「ターゲットは私」だということです。情報は、誰に届けたいか考え、ターゲットを定めて発信するのが一般的です。しかし私は、自分以外の誰かをターゲットにしても、性格も育った環境も年齢も違うから、不特定多数の人に合わせて内容を考えて情報発信するなんて無理な話だと考えていました。

他の誰かではなくまずは自分自身をターゲットに、偽りのない興味があるものを発信していくことにしたんです。自分自身がワクワクしなければ誰にも伝わらないと考えていました。

自分自身も顔を出してメディア展開を続けていった結果、共感し、賛同してくれるファンが増えていったんです。そして、自分とともに、媒体も成長させてもらいました。

さらに、取材先を少しずつ島原以外へ広げる中、県の観光活性化の諮問委員になったことをきっかけに、他の自治体からも「取材してほしい」という声がかかるようになりました。自治体と民間をしっかりつないでいくことで災害復興が進むのではないかと考え、情報誌発行の範囲を島原から長崎、九州へと広げ、長崎と東京2拠点で全国展開を実現しました。

その後、2008年の新潟県知事を皮切りに、47都道府県の知事対談をスタートさせました。知事から知事へリレーでつながる連載にして、地域情報と共に情報誌に掲載。発行部数10万部、全国15000カ所へ配布が実現しました。

なぜ、災害時の対応が変わらないのか


活動を続けていた2011年、東日本大震災が発生しました。直後に友達3人で被災地に向かい現場の状況を見たとき、私が経験した雲仙普賢岳の噴火の時から、なんら災害時対応が変わっていないことを悔しいと思いました。

「日本は災害列島なのにこれはおかしい」と思ったんですよね。この状況が未だに繰り返されているのは何故なんだろう。そう考えたとき、一気にアイディアが閃き、この問題を解決するための新たな仕組みを考えました。

考案したのは、被災後3日間を乗り切るために、仕分け不要のワンパッケージ化された支援物資を、近隣の備蓄倉庫から被災地へ届けるサービス「Guardian72」です。

これまで、支援物資が大量に届いても、必要な人に届けるための仕分けが間に合わず混乱する状況があったんです。そこで、仕分けをしなくていいように一人一人に必要な物資3日分をまとめてパッケージ化したものを事前に備蓄し、災害発生後、近隣の備蓄倉庫から届ける事が出来れば、被災現場は助かるはずだと考えたのです。

しかし、最初は「考えはいいけど、あなたにできるはずがない」と言われるばかりで、なかなかうまくいきませんでした。しかし、実現できるという思いは更に増すばかりでした。

そんな中、熊本地震が起こりました。早くしないと、災害でまた同じ後悔を繰り返してしまう。各領域のプロと連携していけばプロジェクトは必ず実現すると考え、記者発表に挑みました。もし、私に何かあったとしてもプロジェクトを世に発表していれば、誰かに響くはずと信じて覚悟したんです。

おかげさまで様々な企業が支援に手をあげ、プロジェクトに参加してくれています。自分一人では、絶対に実現できないけれど、さまざまな分野の志あるプロと共に構築すれば成り立つと信じて、プロジェクトを進めていきました。

体験を生かし、社会問題の解決を


現在は、地域活性化と災害支援は両輪と考えて、「Guardian72」プロジェクトに力を入れています。

Guardian72は今、障害者の方々にパッケージづくりをお願いし、運用管理テストなどを行いながら、企業の購入や自治体への配備が始まりました。まずはオリンピック開催までに、人口の10%分の備蓄を達成することを目標にしています。

私は結局、これまでに40回以上の入退院を繰り返しました。今は、これも人生の過程のひとつであり、楽しめばいいと考えるようになっています。この経験があってこその私の人生。これまでの経験は、何かを成し遂げるために全て試されたことだと理解しています。

私は、病気で辛いときに知った「ときおそき たがいはあれど つらぬかん ことなきものは 誠なりけり」という言葉を大事にしています。事を成し遂げるのに早い遅いはあっても、誠の志さえあれば必ず成し遂げられるという意味です。今を、いかに価値ある時間として生き抜くか。後悔しない生き方をしたいと思います。

2019.04.03

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