履歴書にのらない経歴に価値がある。環境を変えて新たな気づきを得るきっかけを。

リゾートバイトに特化した人材派遣事業などを行う、株式会社ダイブ代表取締役社長の庄子さん。音楽に没頭して高校卒業後にアメリカへ。帰国すると、経歴のせいで就職が難しい現実が待っていました。世の中に認められないと感じていた庄子さんを変えたものとは。お話を伺いました。

庄子 潔

しょうじ きよし|株式会社ダイブ代表取締役社長
リゾートへの人材派遣を中心に、留学や上京の支援など、移動を軸にした事業を幅広く展開する。

音楽で生きていく


宮城県仙台市で生まれ育ちました。両親は寿司屋を営んでいて、一緒に過ごす時間は長くありませんでした。しかし、あまり寂しさを感じることはなかったですね。程よい距離感を保ちながら僕を信じてくれているのを、暗黙のうちに感じていました。勉強よりも遊びを優先する学生時代でしたが、親を悲しませることはしたくないという想いがありました。

高校1年の夏休みに、姉からクラブに誘われました。狭いクラブハウスに入っていくと、そこには、今まで見たことない世界が広がっていました。密集する人々、曲がかかるたび上がる大きな声。熱気。衝撃的でした。

すべてが大人っぽく、かっこよく見える中でも、DJにくぎ付けになりました。DJがかける音楽によって、客が反応し、場の雰囲気ができていく。人前に出て目立っているラッパーやダンサーよりも、裏で音楽をあやつって空間を作っている姿がかっこよく見えたのです。そのDJが流していたヒップホップにも惹かれましたね。「自分もDJをやりたい」という衝動が抑えられなくなりました。

そこで、すぐに部活をやめて、DJに必要な機材を揃えました。学校が終わったら毎日レコードを買いに行って、夜はクラブに行くという生活が始まりました。高校3年になると、自分で音楽を作ってレギュラーDJを務めるようになりました。

将来は音楽で生きていこうと本気で思っていました。そのため、まずはヒップホップの本場・アメリカに行って音楽を学ぶとともに、自分のつくった音楽を世界的なラッパーに使ってもらおうと考えました。

高校3年生のときアメリカに留学しようと決めて、先生に話すと「その成績で留学なんて行けるわけがない」と言われました。

それでも、留学を諦める気は全くありませんでした。偉い人の推薦状をもらえば入学できるのではと考え、アメリカ在住の叔父叔母に、建前として「アメリカの大学で勉強したい」と話し、アメリカの短期大学の学長と会う機会を作ってもらいました。「すみません。推薦状書いてください!」とお願いすると、学長は快く応じてくれて。推薦状を手に入れることができました。

それに加えて、実家の寿司屋の常連だった国立大学の教授からも推薦状をもらい、2つの推薦状とできの悪い成績表を元にビザを申請しました。結果はOK。高校の先生も驚いていましたね。晴れて、アメリカへ留学できることになりました。

この経歴は社会で通用しない


アメリカでは毎日クラブに通い詰める日々でした。叔父、叔母は僕のクラブ通いを危惧して、アメリカ住まいが長い、僕と同じ年代の男の子を紹介してくれました。現地に住んで長い子どもなら、クラブが危ない場所だということを諭してくれると考えたのでしょう。

しかし、話してみるとその子もヒップホップが大好き。すぐに意気投合して、自重するどころか一緒にクラブへ通うようになりました。

遊んでばかりいて籍を外されないよう、しっかり学校にも通っていました。日本人がほとんどいない学校で授業はすべて英語。内容はよくわかりませんでしたが、勉強ではなく音楽が渡米の目的だったので、特に落ち込むことはありませんでしたね。

2年ほど経ったある日、いつも使っている高速道路で、大きな交通事故を起こしてしまいました。体は無事でしたが、車は廃車になりました。車だと15分ほどだった通学が、交通の便が悪く2時間近くかかることになってしまって。アメリカ留学の本当の目的は音楽なのに、時間をかけてまで学校に通いたくないと思いました。

アメリカ生活は楽しかったですが、音楽活動は日本でも続けられると考え、学校を中退して帰国することにしました。帰国後は、音楽活動を続ける一方で、活動資金のため就職活動も始めたんです。

自分にはなんでもできると思っていました。2年間アメリカ留学したようなイケてる人間は、地元にはいない。そう思って大手総合商社に履歴書を送りました。しかし、何も返答がないんです。おかしいなと思い、他の会社にも何通も出しましたが、合否連絡は一切ありませんでした。

何社も応募する中でようやく、仙台支店のオープニングスタッフを募集している、留学支援会社の書類選考を通過しました。

次は社長との面接。社長一人に対して学生8人で、一人ずつ自己紹介していく形式でした。僕の番は一番最後。絶対勝てると思いながら、他の人の自己紹介を聞いていました。すると、1人目は「私はイギリスの○○大学を卒業して…」と話し始めて。海外経験があるのは自分だけだと思っていたのでびっくりしました。しかも、2人目もアメリカの有名大学を卒業している人。自分の経歴では太刀打ちできないとはっきり感じました。4人目が話し始めるころに「トイレ行って来ていいですか」と部屋を出て、そのまま面接を受けずに帰りました。

その後、パチンコ店の社員にも応募しましたが、良い返答はもらえず落とされました。そこで気づいたんです。「どうやら僕はやばい」と。

僕の学歴は、高校卒業、アメリカの短期大学中退、職歴はなし。履歴書が重視される社会では、僕の経歴では全く評価されませんでした。自分と社会とで、経歴のとらえ方がずれていることがわかったんです。

自分の経歴は、社会では通用しないそれがわかってからは、なんでもいいやと投げやりになりました。音楽活動を続けながら、最終的には派遣社員として工場に勤務することになりました。

誰かを応援できる存在に


勤務していた工場には50人ほどの派遣社員がいました。僕が所属している会社から派遣されているのは一人だけでしたが、他の会社から来ている作業員と仲良くしながら働いていました。

工場には週1回ほど、工場との関係性を保ち、派遣社員の状況をチェックするために、各派遣会社の社員もやって来ます。他の派遣会社の社員は工場長とだけ話してすぐ帰っていました。しかし、僕の派遣会社の社員だけは、工場長との話が終わると僕の元に来て「庄子くん元気?最近どう?」と他愛もない会話で励ましてくれたんです。
すごく感動しました。営業社員に声をかけてもらえたことで、初めて大人や社会に認めてもらえた気がしたんです。うれしくて、「今度は僕が誰かを応援できる存在になりたい」と思いました。そこでいつも声をかけてくれていた社員さんに「僕を雇ってください!」と直談判しましたが、経営状況的に雇う余裕がないからと断られました。

派遣会社ならどこでもいいと思い、片っ端から応募していきました。あれだけ情熱を注いだ音楽活動もやめました。音楽よりも派遣会社に就職して「誰かを応援できる存在になる」ことの方が、優先順位が高くなっていたんです。経験や思いを包み隠さず話して転職活動したところ、ある派遣会社に思いが伝わり、営業として採用してもらえました。

入社して、僕を採用してくれた上司から営業の仕事を叩きこんでもらいました。その上司は派遣スタッフと密な関係を築く方で、スタッフを自宅に呼んだり、一緒に飲みに行ったりするほどでした。僕も工場作業員のときの体験から、スタッフと近い関係でありたいと思っていたのでとても尊敬していました。

1年半経ったころ、その上司が仲間と一緒に、リゾートバイトに特化した人材派遣業の会社を立ち上げることになり、僕も誘われました。上司を信頼していたので、「この人についていこう」と創業間もない株式会社アプリに参画しました。

僕は上司と2人で営業として仙台支社に赴任しました。僕以外の3人はベテランだったので、経験の少ない僕へのプレッシャーは大きく、社長からは「本当に売上を達成できるの?」と厳しいことを言われました。

実際、できると啖呵を切っても成果はなかなかあがりませんでした。そのうち給料も出張代も一切出してもらえない状態に。社長に「自分の食い扶持くらい自分で稼げ!」と言われて、心に火がつきました。絶対見返してやる、と思いましたね。無給状態が半年ほど続きましたが、悔しくてがむしゃらに働きました。

その甲斐あってだんだん結果が出せるようになったころ、転職活動の息抜きにリゾートバイトをしに来た女の子が僕の担当になりました。初日の着任同行から仕事中のフォローまで連絡を取り合ううちにだんだん仲良くなり、何度もリピートして働いてくれるようになりました。はじめは仕事に疲れた、と話していましたが、リゾートバイトを続けているうちに、「カナダに留学したい」と言うようになったんです。

彼女は、身を置く環境を変えたことで、新たな夢を見つけたんです。

僕はその子の夢を応援し続けたいと思いました。2年間リゾートバイトを続け、その子はカナダへ。旅立つ前の日に報告に来てくれたときは、お互い号泣でした。

スタッフさんと近い距離で関わってフォローする。そのために、四六時中電話をとるし、トラブルがあったら現地へ行くこともありました。周りからはよくやるなと言われましたが、それが僕の目指した営業スタイルだったので、辛さを感じることはありませんでした。人を応援し、支え抜くことができるようになり、やりがいを感じていました。

環境変化による気づきを得て、人は変わる


入社して9年目の春、突然社長から東京に呼び出されました。理由がわからないまま会いにいくと、突然「社長をやってくれないか」と言われたんです。一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。全く予想していなかったことだったんです。

社長は外部の関係のない人を後任にしたくないという想いを持っており、「任せられるのは庄子しかいない」と言われました。

かなり驚きましたが、社長の思いを受け入れ、申し出を受けることにしました。

社長に就任した直後は困難の連続でした。初めての東京で人脈がない状況でしたし、頼る人もいませんでした。しかも経営知識を一切持っていない中で引き受けたので、何をすれば良いかわからなくて。本屋に行って経営や総務、自己啓発など社長として必要そうな本を片っ端から買って読み込みました。ひたすら勉強する日々が3年ほど続きましたね。

勉強しながら、まずは会社の方向性の明文化に取り組みました。なんとなくあった会社の雰囲気を明文化することで、社員の間に共通言語が生まれたんです。

次は、それを元にして仲間と共に新しい事業を構築していきました。例えば、留学や上京を支援する事業。リゾートバイトをした人はお金を貯めて次のチャレンジをすることが多いので、その後のサポートもできるようにしました。

事業を展開していく中で、「移動」を軸にすることを決めました。リゾートバイトの派遣事業の経験から、移動することで環境が変わり、それによって人が変わることを実感してきました。自分の知らない環境で、知らない情報に触れることによって、自分の可能性や選択肢に改めて気づくことができる。人の成長要因は日常の中にたくさんあるはずなんですが、大抵の人は何かきっかけがないとそれに気がつきません。移動を軸にしたサービスを通して、その気づきの場を提供したいと考えました。

勇気を持って新しい世界へと飛び込んでいくすべての人を、最後まで支え抜きたい、そして僕たちも未知の領域に挑み続けていきたいという思いから、社名もアプリから「ダイブ」へと変更しました。

誰もがジブンの人生を愛せる世界へ


現在は株式会社ダイブの代表取締役社長として、全国のリゾートへの人材派遣に加えて留学支援や上京支援、全国の旅館と提携した企業の研修サービスの提供、オウンドメディアの運営など、幅広く事業を展開しています。

新しい事業がどんどん増えていますが、軸が「移動」にあることは変わりません。移動して環境を変える機会を得ることで、気づきを得て新たな一歩を踏み出してほしい。その結果、誰もがジブンの人生を愛せる世界になればいいなと思っています。良いことは大きくやった方がいいですから、事業をどんどんブラッシュアップし、大きなインパクトを与えられるようになりたいです。

一方で、今は個人としても新しい世界に飛び込んでみたいと思っているところです。将来は、バックパックで世界一周したいですね。社長という立場では、自分の望みだけでは物事を進められません。今とは大きく違う、自分ですべて意思決定できる環境に身を置いて、僕自身が新たな気づきを得たいですね。

人生は判断の連続です。判断の質をあげるためには、気づきをたくさん得る必要があると思います。新しい一歩を踏み出して気づきの量を増やした先に、また新しいやりたいことが見えてくるのではないかと思っています。

2019.04.01

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