求められる声に応えたい。誰もが安心安全に住める日本の未来を目指して。

政治の世界に30年以上携わってきた、参議院議員の木村さん。もともとは政治の世界に興味がなかったそうです。そんな木村さんがなぜ70歳を過ぎた今でも現役として第一線で走り続けるのか、お話を伺いました。

木村 よしお

きむら よしお|参議院議員
香川県大川郡津田町(現さぬき市)出身。大学卒業後、住友銀行へ入行。1975年から父である衆議院議員 木村武千代の秘書を勤める。香川県議会議員を経て1986年に衆議院初当選。1992年に厚生政務次官に就任。1996年、自由民主党副幹事長就任。2003年、第1次小泉第1次改造内閣において厚生労働副大臣に就任。2015年には永年在職議員25周年を表彰される。現在は、参議院議員(全国比例)、自民党総務や各種委員会委員・委員長などを務める。

わんぱくだった少年時代


第一次ベビーブームの時代に生まれました。幼い頃はとにかくわんぱくで、学校が終わったらすぐに近所の空き地に行き、友達と缶蹴り、かくれんぼ、泥遊び、木登りと、毎日夜遅くまで泥だらけになって遊んでいましたね。

父親が国会議員を目指した影響で両親とも選挙準備で忙しく、7歳上の姉が、ときには母代わりに面倒を見てくれました。小学校の保護者会に来てくれたこともあります。そんな環境だったので、親からああしなさい、こうしなさいと言われることがなく、自由に育ちました。

中学に入ってもわんぱくさは変わらず、教室で騒ぐなどしていたので、教師から目をつけられ、ガツンと怒られたりもしていました。

中学卒業後、家の近くの国立高校に通うことに。高校生になってもわんぱくで、仲間と一緒に体育祭で手に絵具を塗りつけてから競技に臨み、競技そっちのけで相手の顔を絵具まみれにしたこともあります。競技が終わった後にはみんなカラフルな顔になっていて、会場がどよめきました。

後日、生徒会で大問題になり詫び状を書かされましたが、全く落ち込んだりはしませんでしたね。ありきたりな日常よりも、違うことをした方が面白くなると考えていて、端から見れば、いたずらっ子ですが、私の感覚としては楽しいと思えることをひたすらやっているだけでした。

大学1・2年生の時は学生運動の盛んな時期で、学園紛争のためキャンパス内は立ち入り禁止でした。学校に行って勉強したのは3年生の丸一年のみであとは全てレポート試験だったので「優」ばかりでした。4年生のときにはほとんど単位を取り終え、ゼミの単位しか残ってなかったので、地元に帰って父の選挙活動を手伝っていました。

調査部の仕事で経済に詳しく


手伝いはしていたものの、政治の世界に興味はなく、同じ学部卒の学生の間で人気だった大手金融機関に就職しました。完全な売り手市場だったで、就職活動はスムーズでした。

入行してまもなく、語学研修制度に応募しました。社内の英語試験をパスしなければなりませんでしたが、同僚から協力もあり、付け焼き刃ではありましたが、合格しました。その後、英会話学校に半年間通い、朝から晩までみっちり英語を勉強し、アメリカに1カ月間研修で滞在。徹底的に学べたおかげで英検一級にも合格しました。
帰国後、調査部に配属されました。調査部では、アメリカ担当として、アメリカの経済情報の取得に取り組みました。毎朝届くアメリカの通信社のテレタイプや新聞記事を読み、分析して、資料を集め、報告する。経済政策や景気対策について詳しくなりましたし、GDP予想ができるようになったりと経済で使う数字にも強くなりました。

病院たらい回しで「このままではダメだ」


入行して3年がたった頃、父が高齢だったこともあって、地元の方々から後継ぎとして政治家になってくれないかと頼まれるようになりました。求められるなら頑張ってみるかと会社を辞め、父の政治秘書になりました。

議員との出会いや会合への出席を通して、政治の勉強を積み重ねました。秘書を8年務めた頃、親交のあった県議会議員さんが引退することになり、後継者として出馬して欲しいと頼まれました。お世話になっていたので、力になりたいと思いましたし、地元の人たちのために役に立ちたいと考え、出馬を決意しました。

選挙活動を行っていた最中、父が倒れて病院に運ばれました。あちこちの病院をたらい回しにされ、さらには同じ病院の中でもあちこち移動させられました。「11階に入院している」と聞いていくと、病室には別の人がいて、実際には9階にいた。という状況が頻繁にありました。診療科によってフロアが違うからです。

ある看護師からは、「木村先生でもこんな対応になってしまうんですね」と言われました。おそらく気の毒だと思って言ってくれたのでしょう。ただ、私はその言葉を聞いて、このままではダメだ、どうにかして医療入院の追い出しやたらい回しをなくさなければならないと考えるようになりました。

県議会議員に当選し、議員として忙しくする中でも、父親の一件で感じていた世の中に対する「どうにかしなきゃ」という気持ちはずっとありました。そんな中、父の後援会の方たちが私の国政への出馬をすすめてくれるようになりました。地元のために真面目に働いていた実績があったからこそ、私への期待も大きかったのだと思います。

そういった方々の存在をありがたく思い、また、社会の問題を少しでも解決できればと思い、国政への出馬を決意。最初の選挙は激戦で、開票を終えるまでどうなるかわかりませんでしたが1000票差でなんとか当選できました。

「助かった」の声がやりがいに


初当選から、社会労働委員会(現在の厚生労働委員会)に所属しました。父の経験から厚生行政への興味もあったものの、新人議員の花形と言えば、建設や運輸、商工などの委員会。社会労働委員会を希望する議員はほとんどいなかったので、新人議員は一方的に入れられてしまいました。

要領の良い人たちは、2年次になる頃には次々と社会労働委員会から抜けていきました。ふと気づいて周りを見回したら、最初から残っていたのは私一人だけ。「こうなったら開き直って居座ってやれ」と腹を決め、社会労働委員会に居座り続けました。

長らく社会労働、すなわち社会保障や労働問題などの問題に携わっているうちに、経験を積み、気がつけば周りから頼られるようになり、重要なポストを任せてもらえるようにもなりました。

そんな中、私が厚生労働副大臣ときに実現した政策の一つにダイヤル「#8000」というものがあります。簡単に言えば「子ども医療電話相談」。休日や夜間に突然子どもが具合を悪くしたときに、医師や看護師に電話相談できるシステムです。利用した方から「これ、木村さんがやってくれたの?すごく助かりました」と言われたときはうれしくて、これまでやってきてよかったと思いました。

議員生活を送る中で一番のやりがいになったのは、自分が関わった政策や仕組みで国民の生活がよくなることです。「助かったよ。ありがとう」と直接、言葉をかけられると、やっていてよかった、もっと頑張ろうと思います。

「人間万事塞翁が馬」


初当選から21年後、政権交代選挙で、初めて議席を失いました。家内や応援してくださった方々は相当落ち込んでいましたね。しかし、私自身は、「重圧から逃れてだいぶ楽になった」と、気晴らしのできる良いチャンスだと考えていました。「人間万事塞翁が馬」という考え方を大事にしており、短期的に見ると悪い事でも、最後には良いことになって返ってくるはずだと思っていました。

そんな中、支援して下さっていた障害者団体の方から電話がかかってきました。そこで「あなたがいなくなったら困る。ぜひ次の選挙に出てください、全力で応援しますから」と言われました。私の政界復帰を待ってくれている人がいるならば、頑張ってみようかと奮起し、再出馬することにしました。

選挙活動の際、特にお願いしたわけではなかったのですが、障害者団体の方々は私と一緒に、車椅子に乗って東京銀座のど真ん中で500枚のビラ配りを手伝ってくれました。私のために身体のハンデを乗り越えて熱心に動いてくださる姿を見て、感激しました。

協力してくださった多くの方たちのおかげで、参議院議員選挙に全国比例区から出馬し、当選しました。うれしかったというよりは、応援してくださった方々にやっと恩を返せると思い、ホッとしました。

これまでは小選挙区からの出馬で、どこか地元のためにという気持ちで働いていましたが、全国比例区から当選したことで視野が全国にまで広がり、できることが増えました。

例えば、地元高松のお城を復元させる仕事に取り組んだとき、文化庁から「図面がなければできません」と言われました。しかし、全国いろんな事例がわかっていることで、図面がなくても復元できている例を知っていました。そこで、他の城の例を紹介し、できる方法を提案しました。それによって、高松城復興事業を前に進めることができました。

視野が広がり、他の事例を知っていることで、目の前の取り組みに対してより一層力を発揮できるようになったのです。他にも、全国のいろんな人と会えるようになり、視野が広がることで仕事の質は上がりました。

ポリシーは「人に話を聞くこと」


現在は、参議院議員として政界30年以上、特に社会保障や労働といった厚生分野に携わってきた経験を生かして、さまざまな問題に取り組んでいます。

政治家としてのポリシーは、「聴政」すなわち人の話を聞くこと。全国各地の立場、年齢、職種によって考え方の異なる人々の話を聞くことは、政治の原点です。誰がどんなことに苦労しているかを直接聞き、現場の諸課題感を政治の力を使って解決するのが自分の役割だと考えています。

そして「厚生」とは、「生活を厚くする」と書きます。そのための施策は多岐に渡り、考えなければいけない範囲は非常に広いです。ただ、その本質は本当に苦労している人、困っている人たちに手を差し伸べていくことだと思っています。目立っていませんが、国民の生活に直結する影響力の大きな分野であるとも思っています。

これからも日本をさらに安心安全に住めるようにするために、現状の制度のさまざまな「制約」をクリアしていきたいです。例えば、長寿社会に対応した年金制度や介護保険制度など、高齢化社会を乗り越えるためのより良き方法を考えることは重要な課題だと思っています。

これらの問題を解決し、高齢者が安心して、元気にいきいき暮らせる社会を作ることができれば、結果的には、その方々の背中を観ている若者達に勇気を与えるのではとも思っています。

2019.03.25

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