目的のために生きるのはやめました。建築家の卵から銭湯イラストレーターへの転身。

銭湯「小杉湯」の番頭を務めながら、銭湯イラストレーターとして各地の銭湯を描き続ける塩谷さん。幼い頃から建築家になるためのエリート街道を歩んできた塩谷さんが、銭湯イラストレーターへの転職を通じて気づいた、自分らしい生き方とは。

塩谷 歩波

えんや ほなみ|番頭・銭湯イラストレーター
高円寺の銭湯「小杉湯」の番頭を務めながら、銭湯を独自のイラストで紹介する『銭湯図解』を出版。

好きなことへの共感を求めて


東京都目黒区生まれです。小さい頃から絵を描くのが大好きでした。

家族と仲が良く、父と母それぞれから影響を受けました。父とはよく車のナンバープレートの数字を足したり掛けたりする遊びをしていて、数字の面白さを教えてもらいました。インテリアコーディネーターの母には、よくインテリアや内装を描いている様子を見せてもらって、インテリアだけでなく建築に興味を持つようになりましたね。

地元の小学校を卒業した後は、中高一貫の女子校に通いました。ある程度友達はいましたが、表面上の付き合いでした。私は漫画が好きで、好きなポイントなどを共有して盛り上がりたいのに、同じ趣味の人がいなくて。楽しさを共有できないので、学校生活は退屈でしたね。

学校の友達とは話が合わなかったので、インターネットに没頭していきました。ネットで知り合った同じ漫画のファンの子たちとチャットするのが一番楽しかったです。

高校ではロックバンドにもはまりましたが、やっぱりネットで知り合ったファンとの会話を楽しんでいました。自分の好きなものに共感してくれる人がいることが嬉しかったです。

漫画やバンドにはまりつつも、将来は建築家を目指そうと考えていました。建築は総合的な芸術と言われていて、数学や物理はもちろん、美的センスや、なぜその場所にその建物が必要なのか意味づけるための哲学的な思考も求められます。学問にも興味があったので、幅広い学問が結集した建築に惹かれていました。建築に関する職業として建築家しか想像できなかったので、建築家になれる進路を探しました。

建築家になるために突き進む


最初は美的な視点から建築を学びたいと考えて美大を受けようと思っていましたが、別の私立大学のオープンキャンパスに行ったときに考えが変わりました。

建築学科のコーナーに並んだ図面から、すごい熱量を感じたんです。雑に並べられた大きな図面には、手書きでぎっしりと書き込みが入っていました。作り手の熱量や泥臭さが伝わってきて、かっこいいと思ったんです。その瞬間からその大学に惹かれ、AO入試を受験し進学しました。

入学すると、想像以上に泥臭い日々が待っていました。キャンパスの地下にある製図スタジオで設計課題に没頭していましたね。まわりの友達も、みんなものづくりへの熱量が大きく、作業が好きすぎて徹夜も平気な人たちでした。そんな友達と夜中にそばを食べながら、お互いの作品に意見しあったり、制作の苦労を分かち合ったりするのがとても楽しかったです。

研究室の先生が「塩谷くんはいっぱい絵を描いて、論文を書いたら良いよね」と私の絵を評価してくれたので、スケッチをもとに、地方都市を研究対象にした論文を書くことにしました。

酒蔵の町並みが素敵な地方都市を論文の題材にしました。建築を勉強し始めてからたくさんの絵を描く機会は初めてで、とても楽しい時間でした。町並みの統一感のある色合いが魅力的だったので、その色合いを100%表現できるようスケッチを描きました。すると、町の人たちが「自分たちの町が新鮮に見えて良かった」と言ってくれたんです。絵が人の気持ちを揺り動かすこともあるんだと驚きました。

楽しさを共有できる友達ができたり、絵の持つ力を感じられたりしたのは良かったですが、設計には難しさも感じてました。誰かのアイデアを図面に起こすことは得意でしたが、自分で一からアイデアを思い浮かべることは苦手だと気づき始めていました。

でも、建築家を目指すことをやめようとは思いませんでした。一度望んだ道から外れることは脱落するみたいに思えて自分のプライドが許しませんでしたし、誰かのアイデアを形にするという自分の適性に該当する職業が思いつかなかったからです。

建築家への道を進み続けようとする自分と、建築家に向いてない、とどこかで気づいている自分の間で気持ちが揺れ動いていました。大学を卒業する時が来ても社会に出る踏ん切りがつかず、卒業後は建築家になるための設計事務所ではなく、大学院に進みました。

研究を進める中で、建築をつくり上げるのは「人間」と「時間」と「空間」だということを学びました。より良い建物をつくるためには、建物の形などの空間的な面だけでなく、建物に積み重ねられた歴史や時代背景などの時間も味わいのエッセンスになりますし、人がその建物の中でどんな暮らしをしているかもすごく大事なんですよ。

この考え方を学んでからは、建築物の綺麗さやかっこよさよりも、建物と人との関わり方に興味を掻き立てられるようになっていきました。

そんな体験もあって、大学院を卒業後は、人間のスケッチが上手な先生が所長をしている設計事務所に就職することにしました。先生は、建物を造形的に見るのではなく、そこで人がどう過ごすのかを具体的に想像し、とても細かく描き出していました。建物と人との関わりに興味があった私は、「人あってこその建築」だと感じるようになっていたので、この先生の下で働くことを選びました。

設計事務所では、メールや電話などの事務的な作業の多さに驚きましたね。設計などのクリエイティブな作業はほんの一握り。それでも、模型製作など楽しい仕事も多く、充実した日々でした。

体調にも気を遣ってくれるホワイトな職場でしたが、私は自主的に結構遅くまで残っていました。同期の中でも優秀でありたいという強い思いがあり、いち早く建築家として独り立ちしたいと考えていたからです。

どういう建築家になりたいとか、どんな建築をつくりたいとかの思いがないまま、「とにかく早く建築家にならなきゃいけない」という思いに駆られていました。仕事に没頭し始めると、食事もおろそかになっていき、ひどいときは朝、昼、晩とお菓子だけで過ごすこともありました。

そんな生活を続けた結果、事務所に入って2年目に、とうとう体調を崩しました。

銭湯との出会い


最初の頃はめまいや二日酔いのような症状がある程度でしたが、だんだん人と会話を続けるのも難しくなり、仕事に支障をきたすようになっていきました。

そういうことが続くと、どんどん気持ちがふさがっていくんですよね。体調のことを上司に話そうとするときも、なぜか泣いてしまいました。泣きたくないのに、自分でもよく分からないうちに涙が出ていました。やりたいことがあるのに体が動いてくれないことが、悔しくてたまらなかったです。

具合が悪くなるにつれて、建築家になる自分がイメージできなくなっていきました。建築家になるために人生を捧げてきただけに、自分がなくなるような感覚でした。技術を失うだけでなく、人間性も含め完全に自己否定されたみたいな、長所がすべてなくなった感覚。

休職して、3カ月間家で寝込んでいました。人と会話してもすぐにろれつが回らなくなる状態で、なかなか外にも出られません。家にいると気持ちが沈むばかりで、出口が見えませんでした。

そんな時に、同じように休職していた大学時代の友達から、銭湯に誘われました。同じ境遇の友達に誘われたからこそ、一歩外に出ることができました。

銭湯の広い浴槽に浸かると、心が癒されました。また、熱い風呂と冷たい風呂を交互に入る交互浴を始めたところ、血流を良くする効果が病気の治癒に適していたようで、心身ともに回復していったんです。

最初は近くの銭湯に通っていましたが、体調が良くなるにつれてだんだん遠くに行けるようになりました。いろいろな銭湯に入るうちに、銭湯の建物に対して建築的な興味が湧くようになっていきました。

お風呂に入るという行為はどこでも同じなのに、銭湯の設計が場所によって全然違うことが純粋に不思議で、面白いと思いましたね。また、絵の題材としても素敵だし、何かをPRする際にイベントや広告として使っても効果がありそうな最高の素材なのに、この魅力が全然世の中に知られていないことがもったいないと感じました。

ちょうど休職している友達と twitterで交換日記をしていたので、入りに行った銭湯のスケッチを送りました。送る相手が建築学科の同期だったので、建築の手法を使ったスケッチのほうが面白いかなと思い、建物を俯瞰した図に書き込みを入れた形にしました。

そしたら友達だけでなく、知らない人からも「いいね」をもらえるなど、予想外に大きな反響があったんです。そこからほかの銭湯も描き始め、だんだん現場のスケッチに加えて公式ホームページの写真なども参考にしながら、本格的に描くようになりました。

銭湯にはまりつつも、体調が回復したことで、一旦は復職しました。しかし、体力が落ちた状態では以前のような働き方をすることができなくなっていました。ここでやっていくのは厳しいと思いながらも、今まで志してきた建築からは離れたくないという思いもあって悩んでいました。そんなとき、高円寺にある「小杉湯」を運営する三代目に「うちで働かないか」、「うちで働けば輝けると思う」と誘われたんです。

すごく悩みました。有名私立大学の建築学科、大学院、有名な設計事務所という建築家へのエリート街道を外れるのはドロップアウトだと思っていましたし、堅実な人生を送りたいという思いもあったので。そこで、1人でも止める人がいたら転職はやめるつもりで友達10人に相談したところ、全員に「転職したほうがいい」と言われました。「塩谷が好きなことは絵を描くことでしょ」と。

友達に言われて始めて、建築家になりたくて建築を勉強してきたわけじゃないと気づきました。建築に興味を持ったのは絵が好きだったからじゃないかと思ったんです。ようやく踏ん切りがついて、銭湯への転職を決めました。

好きなことをとことんやり続けたい


今は、高円寺にある「小杉湯」で番頭をしながら、並行してイラストレーターをしてやっています。

もともとは銭湯で週に2日開店準備、それとは別に週に2日番台や受付の仕事をしていました。それ以外の時間で、連載のイラストの仕事や、銭湯のポスター作りなどをしていたんです。

2018年に都内を中心に様々な銭湯のカラー図解や見どころをまとめた書籍を出すことが決まりました。一旦小杉湯の通常業務を休ませてもらうことにしましたが、小杉湯さんは「本を出すこと自体が小杉湯のPRにつながるから」と、執筆中も番頭分の給料を出してくれました。半年執筆に専念し、2019年に本を出版することができました。

銭湯の番頭というと番台にいる人というイメージがありますが、本来の番頭にはお店を取り仕切るという意味があるんですよ。今やっている、イラストを描いたり本を出したりしていることも、銭湯の広報という広義の番頭の仕事なのかなと思っています。今後も、イラストを描いて銭湯の認知を広げ、しっかり番頭の役割を果たしていきたいです。

これからは銭湯をはじめ、飲み屋の横丁や寄席、純喫茶など、自分の好きな人情味あふれる昭和の大衆文化の絵を描いていきたいです。やっぱり、人のエピソードが詰まっている建築が魅力的だと思うんですよね。建築家が住む人にこうなってほしいと考えたり、住む人が「こういう風に暮らしたい」と思ったりしてつくられた建物のほうが、人間味があっていいなと思うんです。絵に広がりが生まれるんですよ。そういう雰囲気を表現するために、絵には表情や動きのある人を入れるようにしています。

私が描くのは「好きすぎてやばい」もの。見ているだけでいられない状態になったら絵を描いています。だから、私の絵を見て、「良さ」に共感してくれる人がいたら一番嬉しいですね。描くことで魅力を拡散して、自分の好きなものに共感してくれる人の輪を広げていきたいです。

今の私は、やりたいことはあっても、なりたい将来像は決まっていません。以前は建築家になるために生きていました。でも、今は「目的」のためには生きていません。目的ではなく、好きなことをやるという「方法」のために生きています。銭湯が好きだから、絵を描くのが好きだから。それだけで良いと思うんです。

2019.03.18

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 伊藤 祐己
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