目指すのは、全ての人が幸せを追求できる社会。どこに生まれてもチャンスは平等にある。

京都大学公共政策大学院で、地方のあり方について学ぶ玉橋さん。高校卒業後は自衛官になるも、勉学に励むべく慶應義塾大学法学部へ進学。そこで感じたのは「生まれ育った環境による機会の差」でした。そんな玉橋さんが成し遂げたいこととは。お話を伺いました。

玉橋 尚和

たまはし なおかず|京都大学公共政策大学院2年
新潟市生まれ、京都大学公共政策大学院2年。高校卒業後に航空自衛官を経て慶應義塾大学法学部へ進学。機会の差を痛感し、どこに生まれ住んでいても平等に機会を得られる社会づくりを目指す。2019年春、総務省へ入省予定。

燕市の商店街は、活気があふれていた


新潟県新潟市で生まれました。3歳のときに父の体調が悪化し、入院することになりました。3人暮らしだったのですが、母は父の看病に専念する必要があったため、僕は父の実家がある燕市に預けられました。燕市は金属加工業が盛んで、隣の三条市とともに「燕三条」と呼ばれる地場産業で有名なまちです。「石を投げれば社長に当たる」といわれるほど、会社が多くて商工業が活発でした。

父の実家は、明治10年から続く老舗銭湯を営んでいました。シャッター街とは無縁な活気あふれる商店街の一角に位置していて、地元の人がたくさん集まって、いつも賑やかでした。周りには喫茶店や本屋など、さまざまなお店がたくさんあって、飽きませんでした。本屋ではよく絵本を読み、ワクワクして過ごしましたね。

コミュニティができあがっていたので、地域の人は僕の事情を知っていました。だからみんなから優しくされて、温かい場所だなと感じましたね。

4歳のときに父が亡くなり、母が住む新潟市に戻って2人の生活を送りました。その後、10歳になると今度は母親の両親が住む柏崎市に引っ越しました。燕市に住んだのは1年ほどなのですが、幼少期を過ごした燕市には深い愛着が残りました。

活躍する自衛隊の姿に憧れた


12歳のときに新潟中越地震、15歳のときに新潟中越沖地震と、2度の大きな地震を経験しました。特に中学3年のときに発生した新潟中越沖地震の揺れは大きく、僕の家もガスや水道などライフラインが止まりました。

そんな中、近くの学校のグランドに自衛隊員が来てくれて、物資を配給してくれたりお風呂を沸かしたりしてくれました。地震で恐怖や不安を感じていた僕にとって、助けてくれる人の存在は心の支えになりましたね。僕がふざけて敬礼の真似をしたら、隊員がビシッと返してくれて、嬉しかったです。乗っていた車両もかっこよくて、「ああこんな世界があるんだ」と感動しました。困っている人の力になるって、素敵だなと思いました。

高校受験は志望校に落ち、併願していた私立高校に進学しました。偏差値40くらいの学校で、素行不良の生徒が多かったです。「ここに3年間通うの?」と絶望しましたね。勉強に打ち込むことはなくて、友だちと遊んで過ごしました。気づけばそんな学校で、クラス内の成績が下から2番目になったこともありました。

大学受験はしたものの、自衛隊への憧れは消えず、入隊試験を経て航空自衛官になりました。一般曹候補生という自衛官を養成するための制度があって、僕はそれに応募しました。18歳以上27歳未満であれば、高卒はもちろん、大卒や社会人経験者も申し込めました。入隊試験は筆記や身体検査でした。

自衛隊では、規律が厳しい生活を送りました。朝6時に起床ラッパが鳴ったら1分ほどで着替え、宿舎前で点呼をされ、筋トレやランニングをして朝食を食べます。日中は射撃訓練やほふく前進の練習など、ひたすら体を動かすんです。苦しいことがあっても、仲間がいるから乗り越えられました。「あいつがまだへこたれてないのに俺がへこたれるのはプライドが許さない」と思えたので。精神的に鍛えられましたね。

自衛官をしながら大学受験


大学への進学を諦めて自衛隊に入りましたが、大学への憧れもまた心のどこかにありました。ですから、自衛官としての職務は全うしつつ、将来的に大学進学を目指そうと決めました。そこで、空いた時間を利用して受験勉強を始めることに。

しかし高校で勉強に力を入れなかったこともあり、つまづくことが多くて、くじけそうになりました。そんな時、有名私立や国公立大学出身の同期が、勉強を教えてくれたんです。自衛官として同じように厳しい訓練を受ける中でも他人を気遣う心のゆとりを保てるって、人間的に深いなあ、と感動しました。感動して、自分も大学で勉強して、知識や教養を身につけるだけでなく、彼らのような大人になりたいという思いを強めました。

消灯時間は夜10時でしたが、12時までは延灯が認められていたので、その間に勉強しました。朝は5時に起きてトイレの常夜灯の下で勉強しましたね。自衛官には「休息も仕事」という考えがあって、本当は6時まで寝ていなければいけなかったんですが。

勉強時間の制約があったことと、自分の学力を考えて、受験科目が三教科の私立大学を受けることにしました。また「どうせ目指すなら上だ!」と思い、偏差値がトップクラスの私大を受験することに。自衛官として働く中で、安全保障や国際関係に興味が湧いていたので、志望学科は法学部にしました。そして自衛隊に入ってから約1年4カ月が経った頃、本格的に勉強に専念するため、退官しました。

それから大学受験までの約半年間は、これまで勉強できなかった日中の時間も含めて、朝から晩まで毎日勉強しました。自衛隊を辞めてまで選んだ進路であり、あとがなかっただけに必死でしたね。泣きながら勉強することもたくさんありました。そして努力の甲斐あって無事合格。長かった受験勉強が実を結び、憧れていた姿に一歩近づけたことが非常に嬉しかったです。

大学で感じた都市部と地方の差


入学してすぐに、周りと自分との間にギャップを感じ、劣等感を抱き始めました。クラスメイトの多くは小さい頃から良質な教育を受けてきた人たちだったんです。特に劣等感を感じたのは、クラスメイトから何気なく「高校で第二外国語はやらなかったの?」と言われたときですね。付属高校など偏差値が高い学校の出身者は、授業でスペイン語やフランス語を勉強するのが普通だったようです。

対して僕は入学したものの、母子家庭に育ち、出身高校の偏差値は低かった。さらに自衛官だったという経歴で、同級生たちとは育ってきた環境もやってきたことも違っていて、なんだか浮いている気がしました。

周りにいる同級生は、自分の努力で勉強して今の環境を手に入れたわけですから、何も悪くはありません。一方で、僕のように地方生まれで、それまで質が高い教育を受けられなかった人も悪くない。なぜなら、都市部に比べて「こういう教育の機会がある」といった情報が圧倒的に足りないだけだからです。実際に質の高い教育を受け、人生を切り拓いていったというロールモデルも少ない。決して劣っているとか勉強ができない、というわけではないんですよ。

生まれた場所や育った環境で、受けられる教育に差が出る社会はイヤだなと感じました。社会構造のおかしさを意識して、都市部と地方でのあらゆる機会をできるだけ均等にしたいという気持ちを抱くようになりました。

完全な人間なんていない


それからしばらく学生生活を送るうちに、今度は自分の中に、驕った気持ちが生じ始めました。劣等感の裏返しだったと思います。「自分は、同級生たちほど恵まれていない環境から努力して難関大学に入ったんだ」と、天狗になってしまったんです。

しかし大学3年のとき、旅行で四国を歩いてお遍路したとき、驕った気持ちを改める出来事を経験しました。山で脱水症状を起こしてしまい、死にかけたんです。もともと自衛官として訓練を受けていただけに体力に自信があったのですが、難所として有名な山道のなかで重度の脱水症状に陥り、倒れてしまいました。

そんな経験を通して、「完全な人間なんていない。だからこそもっと努力が必要なんだ」と思い知り、驕りも劣等感も消えていきました。同時に、他者に対しても優しい人間であろうと思いました。自分と同じように周りの人々もみな、完全ではないからです。

驕った気持ちが消えてからは改めて、大学で勉強がしたいと思っていたことを思い出し、実際に満足のゆくほど勉強ができたのか自分に問い直しました。その結果、まだ何も修めていないなと考え、より専門的な勉強をするため公共政策について学べる京都大学の大学院に進学しました。

勉強する中で、自分が目の当たりにした機会の差を改善するためには、地方自治制度や都市部と地方の関係性の見直しなど、国の根本的な部分に携わる必要があると感じるようになりました。そこでそれらを担う総務省への入省を目指し、勉強することに。その結果、なんとか国家試験にもパスし、念願叶って4月から総務省へと入省することになりました。

誰もが幸せを追求できる社会をつくりたい


現在は大学院で、主に地方自治や地域の活性化などについて学んでいます。しかし、いくら立派な制度を設けても、すぐにそれが地方の活性化には繋がるとはかぎりません。首長や地方公務員など行政の現場にいる人の話を聞きに行ったり、実際に地方で暮らす人たちの声を聞いたりして、現状を知ることが大切です。そこで僕は月に1度は地元に帰り、色んな人の話を聴くことを心がけています。

今後、仕事を通して、日本に住むすべての人々が、日本中どこに暮らしていても、自分の幸せを追求できる社会をつくりたいです。僕が通っていた高校は偏差値が低く、全体的に閉塞感がありました。生徒たちの多くは、この先自分はどんな人生を選択できるのかという情報が少なく、何をしたらいいのかわからずに苦しんでいました。僕もその一人でした。

経済的に豊かになったり、人口が増えたりすることが、地方活性化のゴールではないと僕は思います。そこに住む人々が、その人が思う幸せを手に入れられる環境を日本中どこにでもつくること、それこそが目指すべきところかなと。

たとえば、地域の商店街で花屋をオープンしたい人がいるとします。開業してビジネスとして成り立つためには、その地方自体にまず元気がないといけない。そうでなかったら、どんなに願ってもその人は夢を諦めざるをえません。個人が夢や目標を達成するための土壌の整備は、絶対に必要なんです。

僕は、きっと遺族年金という制度がなかったら大学にも大学院にも通えていなかったと思います。でも僕は、その制度をつくるうえで尽力した人の顔も名前も知りません。公務員として働くうえでは、それでいいかなと思っています。つまり、後世の人が僕の顔や名前なんて知らなくても、その人の人生が少しでも豊かになったらそれでいいんです。

一方、仕事以外の活動としては、個人的に講演を行なったり本を書いたりすることを通じて、どんな育ちや経歴でも人生の道はいくらでも開けることを伝えていきたいと思っています。僕自身の人生を一つのロールモデルとして提供することで、閉塞感に悩む若者たちに夢や希望を感じてほしい。どんな人でも自分の幸せを追求できる社会をつくるため、今の自分にできることを模索し、前進していきたいです。

2019.02.08

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