病院に行かなくても健康はつくれる。離島での医療を経て見つけた自分の使命。

働く人の健康をつくるため、法人向けヘルスケアサービス会社を経営する山田さん。幼い頃からコンプレックスだった兄を追いかけ、進んだ医者の道。離島で体験した医療の現実、病院経営を通して感じたジレンマ。山田さんが「病院がいらない健康づくり」を目指すまでの経緯を伺いました。

山田 洋太

やまだ ようた|株式会社iCARE 代表取締役CEO
金沢大学医学部卒業。沖縄県立中部病院で3年間研修後、公立久米島病院にて離島医療に従事。その後、慶應大学ビジネス・スクール(大学院)でMBAを取得。在学中に同級生とともに株式会社iCAREを創業、クリニックでメンタルヘルス患者2万人以上を診療。大学院修了後、東京ベイ・浦安市市川医療センターで経営企画室室長として三軒の病院の経営黒字化に成功。現在も産業医として活躍し、プロの産業医育成勉強会も主催。

兄への憧れ


大阪府堺市で生まれました。北海道へ引越して2歳前後まで過ごした後、東京に移り住みました。5歳のとき、鉄鋼業をしていた父の仕事の都合でアメリカへ行くことになり、幼稚園時代はアメリカで過ごしました。工作やものづくりが大好きで、レゴブロックで遊んだり、いろいろなものを分解したりしていました。

そんな僕には、2歳上の兄がいました。シャイであがり症な僕に対して、兄は明朗快活で、見た目も超かっこいい。勉強もスポーツもできました。リトルリーグで少年野球を始めたときも、僕は下手くそでチームのお荷物。しかし兄は選抜に選ばれていました。何をやらせても全然違いましたね。

両親に兄と比べるようなことを言われたことはありません。でも、兄の存在は常に自分につきまとっていました。憧れであり、コンプレックスでもありました。

10歳のときに東京に戻り、日本の小学校に通うことに。ものすごくいじめられましたね。なぜか「アメ公」とか言われて。アメリカは多様性やいろいろな考え方を受け入れてくれる社会だったので、日本という国の排他的なところには少し戸惑いました。

中学校は中高一貫の男子校でした。すごく楽しかったですね。日本的なものに興味があって柔道部に入部しました。運動が苦手な僕はやっぱり補欠でしたが、ずっと頑張っていればきちんと評価されるということは、部活を通して学びました。

勉強も、成績は学年で下から数えた方が早く、さすがに父に叱られました。そこから人の3倍努力して勉強していたら、いつの間にか上から数えたほうが早くなりました。だんだんと勉強をするのが楽しくなりましたね。

自分は自分らしくていい


兄はずっと憧れで、自分の目標でした。兄が医学部に入って医者になると言うので、自分も追いかけるように医学部に入りました。

大学2年生のとき、バイトで塾講師をはじめます。そこで、教えている子どもたちの成績が上がっていくのを見て、楽しさややりがいを感じました。僕は人に何かを教えることで、その人が花咲く瞬間を見ることがとても好きなんだと初めて気付いたんです。

そこから、教育に関する活動の領域を広げることに。大学の先輩と一緒に、学生が学生に勉強を教える場を企画し、心肺蘇生のワークショップなどを行っていました。やり続けていたらいつの間にか医学生の大多数が自分の教え子になり、一時期は200人近い団体にもなりました。いいなと思うことを愚直にやり続けていれば、影響の輪って広がるんだとわかったんです。

人に教えるために努力しました。努力はやった分だけ必ず反映されるし、感謝される。そこに人を教えるという凄さや醍醐味がありました。その経験から、「自分は自分らしくていい」と思えるようになったんです。山田洋太は山田洋太、兄は兄。僕自身のことを考えるとき、決して兄っていう基準があるわけじゃない。兄へのコンプレックスがなくなり、自分のアイデンティティが確立しました。

医学部を卒業するとき、後輩が桜の枝をプレゼントしてくれました。理由を聞くと、「洋太さんはこの桜の蕾が開くみたいに、人を開花させるのが一番似合ってる。だから、これからもそういうところで活躍してほしい」と言われたのです。

「人には必ず生まれ持ったギフトがある」というのが、僕のモットーなんです。後輩の言葉を聞いて、人の才能を開花させることが自分が持って生まれた「ギフト」なんだとやっと気が付きました。そして、自分のギフトを世の中に還元していこうと思うようになりました。

沖縄で体感した医療の現実


医者としては、あらゆる病気を診たかったので総合内科を選択しました。卒業後は早く一人前になりたくて、研修が厳しいことで有名な沖縄本土の病院へ入職し、そこで必死になって働いて、多くの知識を詰め込みました。また、後輩の育成やチーム医療の活動を評価してもらった結果、研修医の中で3年間ずっと最優秀賞に選ばれました。

そんなある時、医学的に手の施しようがない状態のがん患者さんが運ばれてきました。僕たちはご家族の希望で、延命治療しました。しかし、その方が亡くなったとき、娘さんが「こんなはずじゃなかった」と言ったのです。

衝撃的でした。延命すればそうなるのは、僕たちには当たり前のことでしたから。最期なのに、ご家族が納得されない形になってしまう。ご家族と病院側とのすれ違いに気づいてしまったのです。

その後、久米島の病院で働くことにしました。人口8600人の離島で、ヘリコプターの搬送から透析まで、医者として様々なことをやりました。

久米島には、最期は島で迎えたいという人がたくさんいました。本土の病院での経験から、患者さんには最高の舞台を届けたいという思いがあり、ご家族から「最期は家で死なせたい」と言われれば、患者さんを軽トラに乗せて家に行って、そこで息を引き取るのを看取ることもありました。それは亡くなり方として最高の演出なんですよね。ご家族にはすごく感謝されました。

またある時、普段農家をしている患者さんに血圧や服薬について口うるさく言っていたことがありました。すると先輩に、「ちょっとあの人の家に行ってみなよ」と言われて。行ってみてびっくりしました。患者さんは、ほったて小屋のような家に住んでいて。明日生きるか死ぬか、その日暮らしをしている人だったんです。

そんな人に薬を飲めだとか食事をこうした方がいいとか、なんてむごい、失礼な話をしていたんだと思って。病院という閉ざされた空間の中だけで、相手を知った気になって話をしていたことが恥ずかしくなりました。

そのとき、顕在化された病気を診るだけじゃ健康にはならないんだと、ヘルスケアにおける考え方が変わったんです。その人らしい生活、仕事、生き方そのものを理解しないで健康をつくることはできないんだと思ったのです。

病院経営のジレンマを知る


そのうち、久米島の病院の経営状況が悪くなってしまったので、なんとかしようとビジネス書を読み、書かれていた内容を実践してみました。

しかし、それが全部失敗してしまって。このままだと病院が潰れると思い、初めて病院経営の大事さに気付きました。そして同時に、「持続可能な地域医療の在り方ってなんなのだろう」と疑問を持ちました。

どうにもならないと言っているだけじゃ何も変わりません。問題があったら、誰かが解決するためにやらないといけない。「じゃあ俺が経営を学ぶ」と決め、医者を一旦やめてビジネススクールに2年間通うことにしました。

周囲には猛反対されましたが、基本的に問題が発生したら見て見ぬふりをしたくないのです。自分が気づいてしまったのだからやらなきゃ、という使命感がありました。と言いながら一度試して失敗しているので、悔しさや好奇心もありましたけどね。

東京のビジネススクールに入ってから、医療現場にマネジメントの概念が浸透すれば、みんなもっと良い環境で仕事ができることを知りました。また、社会保障制度の第一人者である先生に政策の大事さを学びました。

ビジネススクールに通いながら、アルバイトで医者もしていました。専門である内科だけでなく、心療内科、精神科の仕事も経験しました。これまで内科医をしていたとき、うつ病の患者さんたちに何もできなかったので、専門的に学べばできることが増えると思ったんです。

実際診療してみると、びっくりするくらいうつ病や不眠症の方々が来られました。働いていてそういった症状になってしまった人がほとんどでした。「なんでこんなにたくさんの人が来るんだ」「病院に来る前に会社でできることがいっぱいあったはずなのに、なんでこんな状態になるまで放っておいたんだ」と戸惑いました。この現状をなんとかしなければならない、という意識が芽生えました。

卒業後は千葉の病院へ行き、経営企画室室長のポジションに就くことに。医師職ではなく完全に事務方です。

年配の内科部長に若造が意見するので、はじめは反発を食らいました。でも6カ月ぐらい言い続けていると、段々みんな話を聞いてくれるようになって。マネジメントの難しさと醍醐味を知りましたね。

ただ、経営に携わるうちに、ジレンマを感じるようになりました。病院では、先月よりもCTやMRI検査の件数が減ると、数の担保のためもっと検査をするようにと指示しなければなりません。病院経営の視点で考えると、それをやらないと従業員に給料が払えず、路頭に迷わせてしまうことになるからです。でも現場からすれば、必要ないからやっていないわけで、必要ないものをなぜやれと言うんだという気持ちも理解できました。おかしくないですか?病院って、病気を治すためにあるんです。でも病気がなくなったら自分たちが食い潰れる。こんなジレンマないですよ。

医療の本質、健康づくりの本質はそこにないと思いました。だから、病院や医療機関じゃないところで健康をつくるべきだと思ったんです。そこで、病院経営業務と同時に病院の外でヘルスケア事業を始めました。

予防医療のプラットフォームへ


現在は、法人向けのヘルスケアサービスを提供する株式会社iCAREの代表取締役CEOを務めています。産業医の紹介、健康相談、システムや管理業務の請負など、働く人が健康を維持するための仕組みづくりをバックアップしています。

企業によって求められる要件が違うので、各企業の業種業態やステージに合わせた提案を行います。例えば、従業員の検診受診率が50%だった企業にサービスを提供し、受診率を93%まで上げたり、健康相談で従業員から「うつ病なのですが仕事どうしたらいいですか?」と言われたときの対処を請け負ったりしています。

僕たちの一番の強みは、カンパニーケアです。我々のサービスを徹底的に使えば、企業が労働者の健康に責任を持てる環境を、効率良く作ることができます。

環境が良いだけでは健康は作れません。でも環境が良くないと、そもそも健康づくりがスタートしないのも事実。過重労働させられている従業員に、ストレスがなくなる方法をいくら教えても無駄なんですよ。心が病んでしまって、健康のことなんて考えられないんです。なのでまず我々が、健康についてきちんと考えられるような環境をつくろうとしています。

健康になるための環境を整えて土台をつくったら、今度は自分に最適な健康サービスを享受できる、セルフケアの仕組みを充実させていきたいと考えています。パーソナルデータを基にコンディションを顕在化して、既存の健康サービスとマッチングさせていきます。

最終的にはディズニーアニメに出てくる『ベイマックス』を一人一台作りたいと思っているんです。朝起きたら「顔色悪いので鉄分が不足しています、目を見せてください。貧血ですね。鉄分のサプリメント出しておきます」などと、健康に必要なものを推薦してくれるようなサービスです。そうすると、人は健康行動を取ることができると思うのです。

また、例えば手を切ってしまったとき、写真を撮ってアップすると、専門家が応急処置のやり方やその後の対応を指示してくれるような仕組みも検討しています。それができれば、わざわざ救急外来に行かなくても済むわけです。実際、病院に行く必要のない人も多いのですよ。

僕は、自分の子どもや孫の世代には今の医療保険制度は潰れていると考えています。そのため、病院に行かなくても健康をつくれるようになるのが最終目標です。パーソナルなデータと、権威ある専門性を組み合わせて、気軽な健康行動をつくり出す。テクノロジーによって、そういう世界はもう実現できるはずなのです。

病院に頼らなくても、予防によって健康はつくり出せる。そんな仕組みづくりを誰かがやらなければいけないし、やるのは僕らだと思っています。医者という天職を捨ててでもやるという、使命感ですね。身体的、精神的、そして社会的にも人が健康でいられるように、予防医療のプラットフォーマーにならなければいけないと思っています。

2019.01.31

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