枠組みから外れても、人は成長しやり直せる。安心して暮らせる優しい社会をつくりたい。

無職の人やフリーターを1000人エンジニアにするというミッションのもと、システム開発会社とエンジニア育成会社を経営している吉谷さん。周囲の人たちと同じことができずにいた子ども時代。仕事でもプライベートでも困難が続く中、生きる術となったのはプログラミングでした。そんな吉谷さんが実現したい社会とは。お話を伺いました。

吉谷 愛

よしたに あい|フロイデ株式会社・株式会社フロイデール 代表取締役社長
無職やフリーターを1000人エンジニアにするというミッションのもと、システム開発会社およびエンジニア育成会社を手掛けている。

ひらすらマイペースに生きてきた


福岡県北九州市の門司で生まれました。常にボーッとしている子どもで、周囲と足並みを揃えて同じことをすることが苦手でした。小学校では、他の子と同じように教科書を見たりノートをとったりしながら授業を聞くことができず、パラパラ漫画を書いたり友達に手紙を書いたりしていましたね。学校の先生とも親とも相性が悪かったです。不注意型のADHD(注意欠陥・多動性障害)だったのですが、まだそんな概念がなかったため、ただただ「女のくせにだらしないがさつな子」だと思われていました。

唯一、自分のペースでできる読書が好きでした。裕福ではなかったので、子どものための本などはなかなか買い与えられませんでしたが、本が好きだった母が持っていた大人が読むような本を、手当たり次第に片っ端から読んでいました。吉川英治の『三国志』やドストエフスキーの『罪と罰』も、小学生の時から読んでいました。

中学校ではたまたま先生に誘われたことから陸上部に入り、高校ではなんとなくの流れで吹奏楽部に入りました。吹奏楽部は、楽器が重たくてやめたいと思っていたときに、たまたま友人からバンドに誘われたため、途中で退部しました。

高校卒業後の進路を考えたとき、自分はOLには向いていないと思いました。人の話をちゃんと聞けないし、気も利かない。段取りも苦手で、いつも次の授業の科目を覚えられず、友達に授業の場所を教えてもらい、準備してもらっていました。だからオフィスで働いている自分の姿はイメージはできませんでした。

そこで、子どもが好きだったことから保育士になろうと、短大の保育科に入学しました。保育園や幼稚園の実習をしてみて、子どもたちと遊んでいる時間は楽しかったですが、自分は保育士には向いていないと思いました。同時に複数のことをすることがが苦手なので、一人の子どもを抱っこしている時に別の子が遠くで泣いていたら、抱いている子を放り出し、別の子の元に駆け付けてしまうことがあったんです。私には人の命を預かる仕事はできないと思いました。

会社に居場所がない


短大卒業後は、自分には向いていないと思いつつも親に進められたことで、OLになろうとと決意し、一般事務職に就きました。

実際に働いてみると、業務内容は理解できないことばかりでした。仕事をする意味や理由を見出すことができず、ずっと仕事ができないままでした。例えば事務作業のワークフローにしても「なぜ」そうするかがわからないですし、お茶汲みの仕事を「なぜ」私がやるのかがわかりませんでした。その「なぜ」を誰も答えてはくれません。後から入ってきた後輩たちはどんどん仕事ができるようになっていき、自分の居場所がないと強烈に感じるようになりました。

でも、ここでやめたらこの先もずっとやめ続ける人生が待っているなと思ったんです。そのときに生まれて初めて、腹をくくって何かを勉強しようと思いました。その頃ちょうどWindows95が登場したばかりだったので、パソコンの勉強を始めました。パソコンならみんなスタートが一緒なので、自分も頑張ればできるようになるんじゃないかと思ったんです。他にも、仕事の基本を学ぼうと秘書検定の勉強もしました。その中で、これまで誰にも説明してもらえなかったいろいろな仕事の理由がわかるようになったんです。例えば、お茶汲みとは相手をアシストする仕事なんだ、とか。

パソコンの勉強をしていく中で、自分の好きなことが明確になっていきました。ワードよりもエクセルが好きで、ただ数字を打ち込むよりも自動計算してくれる関数式を使うのが好きで、関数式よりも作業が自動化ができるマクロ機能が好きでした。

自分の好きなことがわかったことで、その好きなことを仕事に生かすように。例えば、エクセルを使い、自分で簡単なシステムを開発しました。それまで電卓を使って計算しエクセルに打ち込んでいたものを、マクロ機能を使ってボタン一つで実現できるようにしました。それまで受け身で仕事をしていたのが、積極的な姿勢に変わりましたね。

その後は、役員秘書に移動となりました。秘書といってもお茶汲みのような雑用がほとんどでしたが、年配の方にはお茶を濃いめにいれようとか、若い人には薄めにいれようとか、小さいことでも自分なりに仕事の工夫をするようにしていました。

「なぜ」やるのかがわかると、それに向けてどうしたら良いかを考えていけるようになりました。

プログラミングで生きていく


役員秘書になってからは、好きだったパソコンの仕事が減っていきました。居場所がない感覚はほとんどなくなり、だいぶ会社は楽しくなってきていたのですが、もっとパソコン、特にマクロやプログラミングを使った仕事をしたいと思うようになりました。そんな時、友人が未経験でもプログラミングが学べるという会社を紹介してくれて、転職することにしました。

プログラミングを学びながら仕事ができると思っていたのですが、入社してみるとプログラミングは誰も教えてくれず、勉強本だけ手渡され、おまけに本代は自腹。さらには入社3日目くらいに「やめてほしい」と突然言われたんです。どうやら私は使えない人間という扱いだったようです。地方の支所に行かされ転勤ばかりでしたが、嫌な時にすぐやめる人生にはしたくないと思い、3年間は頑張って勤め続けました。

しかし、転勤ばかりの生活に疲れ、地元で働きたいと考えるようになり、地元の小さなIT会社に転職をしました。実際に働いてみると私は地方の下水処理場のシステム管理が担当で、プログラミングよりも地方の下水処理場に調査、検証をしに行く時間の方が遙かに長かったのです。結局地方への出張が多くなり、希望通りの仕事はできませんでした。

その頃、20代中盤という年齢もあり、婚活を始めました。あまり両親とそりが合わなかった私は「おおらかな旦那様と元気な子ども2人くらいとで、季節を感じながら暮らしていきたい」という思いがありましたが、だんだんと「マイペースすぎる自分は共同生活に向かない」と考えるようになりました。

しかし、ちょうどそんなタイミングで、私以上にマイペースな男性と仕事で出会ったんです。「この人とだったらうまくいくんじゃないか?」と思い、あちらも同じようにおもってくれたのか、29歳でその男性と結婚しました。専業主婦になりたいと思っていたので、結婚を機に仕事はやめました。

ところが、結婚して2週間後、夫が会社でのストレスから過敏性大腸炎になって働けなくなってしまいました。突然腹痛を引き起こすため、電車に乗ったり会社で仕事をしたりすることができない状態です。治療して治るものでもないので、いつまた働けるようになるのか先が見えない状況でした。私は両親と折り合いが悪く、親に頼りづらい状況にありました。また、会社をやめる時、会社側に結婚を機にやめることに賛同してもらえず半ば喧嘩気味にやめてしまったので、また雇ってほしいとも言えず途方に暮れました。新婚旅行で貯金も使い果たし、来月分の家賃を払うお金もなくて「本当にやばい」と思いました。

私がお金を稼がないと生きていけない状況になり、必死で仕事を探しました。しかし、大学も出ていない30歳手前の専業主婦が就ける仕事というと、介護や夜の仕事しかないんです。その時に私が思ったのは「私達は、そんなに悪いことをしたのだろうか?」ということでした。何に対してかわかりませんが、非常に悔しかったです。そしてOL2年目の時に思ったように「ここで夜の仕事に流れたら、一生そこから抜け出せなくなる」とも思いました。何より、マイペースな私がやっと自分で選んで手に入れた家族をちゃんと守りたいと思い、とにかくなんとかしようと腹をくくりました。

夫は家でだったら仕事ができるというので、二人で家でできる仕事を考え、これまでやってきたプログラミングの仕事でなんとか収入を得ようと考えました。業務委託なら、いつまでに納品すればいつ入金されるのかわかるため、必要なお金に対して逆算して仕事を受けることもできます。


そこで私は「営業経験も実績もない私達が期限までに仕事を獲得するにはどうすればいいか」を考え、転職情報誌を使うことを思いつきました。転職情報誌でプログラマーを募集している会社を探し、「正社員」「契約社員」「パート、アルバイト」など様々な契約形態がある中から、「業務委託」と書かれた求人情報に電話して、仕事をもらえないか依頼し続けました。結果、なんとか仕事をもらうことができ、夫婦でプログラミングを教え合いながら二人で制作して納品。無事、家賃を払うことができました。

プログラマーという職種は資格も要らないですし、これまでの経歴、年齢、国籍、性別など問われないので、とてもフェアだと思いました。頑張って勉強してスキルを身に付ければ、食べていくことができる仕事だと実感しました。

自分は「なぜ」仕事をするのか


それからも順調に仕事をもらうことができて、二人では手が回らず人を雇うために法人化しようと考えました。ちょうど父が以前やっていた会社が法人格だけ残っている状態だったので、その会社を使うことにしました。代表取締役は父にお願いし、事業内容をIT業務に変えて、システム開発を受注する会社として再スタートしました。10人ほど社員を雇い、会社は順調に回るようになりました。

プログラマーには、プログラミング未経験の無職やフリーターの人たちを積極的に雇いました。スキルが何もなく、自立した生活を送ることができていない人たちでも、プログラミングを勉強し、生きていくためのスキルとしてほしいという思いでした。

仕事も安定してきたので、なかなか子どもを授かることができない状態だったことから不妊治療を開始しました。しかし、3回流産するも、何年経ってもなかなか授かることができず、思い悩む日々が続きました。そんな中、リーマンショックが起きて仕事も行き詰まってしまいました。

社員を抱えているのでなんとか会社を立て直さなくてはならず、不妊治療は完全に諦めて仕事に専念しようと覚悟を決めました。今まで父が就任していた代表取締役に自分が就任し、仕事がありそうな東京で取引先を開拓しようと上京しました。

足がかりとなるお客様を見つけ、夫も東京に呼んで完全に引越し、さあこれからという時、妊娠が発覚しました。一度諦めた子どもを授かることができて、とても嬉しかったです。ところが、無事に子どもが生まれて半年後、夫が脳梗塞になってしまったんです。病院に運ばれた時、余命1年と宣告されました。最悪の状況を考えてしまいすごく辛い思いでした。しかし、3日目くらいになると状況が好転し、夫がリハビリを頑張った結果、元の生活ができるようになりました。最悪の状況にならずに安心しました。

その後、2人目の子どもを授かることもできました。両親の支援なく東京で子ども2人を育てながら生活していくのは厳しくなり、福岡にある本社にうまく仕事を回せるようになっていたこともあって、実家近くの北九州市に引っ越しました。

生活も落ち着き、育児と仕事の両立の生活の中で、私は「なぜ自分が社長をやっているんだろう?」ということを考えるようになりました。立場的にやめられないというだけではなく、何かが私を仕事に惹き付けていると感じました。

昔からそうですが、私はそれまで壮大な目標を立ててそこに向けて頑張るというよりは、そのときの社会や人生の流れを見極めて生きてきました。「山登り型」ではなく「川下り型」の人生です。正直ここまでは、「家賃のため」「生活のため」「不妊治療のため」という目先の課題で精一杯だった気がします。だから流れに任せて仕事をしていただけで、「なぜ」社長でい続けるのか考えたことはなかったんです。そのとき改めて、自分は「なぜ」社長でいるのかを言語化しました。


仕事をしていて何が一番やりがいを感じるかについて、自分の中でいろいろ反芻してみました。両親や兄弟からの「どうせお前なんかに起業なんてできないだろう」という偏見を打ち破るのもスッとしましたし、お客様から「ありがとう」と言われた瞬間も幸せでした。自分が手掛けたサービスが世に出ていくのをみる時も、誇らしく思えました。昨日できなかったことが今日できるようになる瞬間も「やった!」という感覚を得ることができました。

でもそれ以上に、私は仕事をしているとき、自分の会社に入ったプログラミング未経験の子たちが、本当に何もできないところからスキルを身に付け、自立して結婚して子どもも生まれて幸せになっていくのを見ているのがすごく楽しいんです。育っていくのを見る喜びです。その喜びを原動力にして自分は仕事をしているんだと、改めて気が付きました。


そして同時に、「世の中には、夜の仕事しか選択肢のなかったかつての私のような人が、まだまだたくさんいること」から目を逸らしてはいけないと思いました。

もし、入社してエンジニアとして自立できるようになった子が1000人いたとして、その子が結婚したら2000人の人生が変わる。子どもが2人できたら4000人の人生が変わる。さらに、そういう人たちを見て頑張ろうと思える人がいる。そうすると1万人ぐらいの人生を変えられて、社会にポジティブな影響を与えられるんじゃないか。そしてもし、私ができるだけ短期間にこの1000人ミッションを実現したら、地方在住者・主婦・学歴や手に職がない人・シニア・発達障害者の可能性を開くことができるんじゃないだろうか、と考えました。そこから、未経験からエンジニアを1000人育てることを会社のミッションとしました。

人々が安心して暮らせる優しい社会を


現在は、システム開発の受注から納品までを行うフロイデ株式会社と、エンジニアの採用支援や研修を行う株式会社フロイデールを経営しています。

フロイデ株式会社では、WebやiPhone/Androidのアプリの開発やインフラシステム開発など、BtoBやBtoCのサービスを手掛けています。普通のシステム会社と違うところは、案件を進める際、チームを作ってアジャイル開発をベースとしたラボ型でお客様と共に成長しながら開発を進めているところです。

受注を受けてからの最初の3カ月間は、コミュニケーションの確立やインプット、試行錯誤が多くなります。しかし、確実にスキルをキャッチアップしていって、それ以降は急激に生産性を上げていきますよという前提で仕事を受けています。

通常、成長を織り込んだ受注の提案をすることはあり得ないですが、成長を織り込むということは、成長にコミットしなければいけないということなので、お客様も自社チームも成長していきます。

株式会社フロイデールでは、他企業のエンジニア未経験者研修や異業種転職のためのエンジニア研修を行っています。もともと、フロイデでは10年以上未経験者をエンジニアに育ててきたので、そのノウハウを活かして育成しています。

日本では現状、新卒採用などで一般的な社会の枠組みに入れなかった人たちは、その後にやり直すことが難しい状況にあります。私自身、家族で幸せに暮らしたいだけなのに随分苦しんだなと感じます。自分の進んだ道は後悔していないし幸せですが、娘がもし同じ状況に立ったときに、同じ思いをさせたくない。そのためには、たとえ枠組みに入れなくても、何度でも挑戦して失敗できる環境とそれを受け入れてくれる社会が必要だと考えています。私は、感情を持つ一人一人の人間が、勉強し、成長していく中で生じる揺らぎの部分を認めていきたいし、揺らぎを認めてもらえる社会にしていきたいと思っています。

また、何か人よりできないことや足りないものがあっても、誰もが自己肯定感を持てるようにしたいなと思いますね。全部が足りていなくても、自分が欲しいものが手に入れられれば本当は良いはずなんです。自分がほしいものをはっきりさせるためには、「なぜ欲しいの?」という問いが大事。常に「なぜ」を考えることで、自分が本当に好きなこと、実現したいことを知り、それを手に入れる努力をすることができる。それによって自己肯定感が生まれ、前向きに生きていくことができると考えています。そして、より多くの人が仕事を通してクライアントやユーザーの幸せに寄与し、自分の成長を実感できる、今よりもっと安心して穏やかに暮らせる優しい世界が実現できると信じています。

2019.01.29

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