建築物は、人と人を繋げ、街を作り出す。地域に根付き、生き続ける建築物を遺したい。

建築家として、ベルリンを拠点に国内外で住宅や商業施設の改修・新築などの建築デザインを手掛ける舟木さん。学生時代にミラノ大聖堂を見たときの感動から、建築家を志しパリへ渡ります。舟木さんが理想とする建築とはどんなものなのか、お話を伺いました。

舟木 嶺文

ふなき れいぶん|建築家
建築設計事務所 studio D architects 代表。芝浦工業大学建築工学科を卒業後、フランス国立パリ・ベルヴィル建築大学留学、同大学院修士課程修了。現在、ヨーロッパと日本を中心に建築設計活動を行なっている。人と人、人と街を結び、後世へと続いていくような地域に根付いた建築物を作り出すことを目指している。

個性的でいたい少年時代


茨城県ひたちなか市で生まれ育ちました。家のすぐ近くには海と山があり、自然に囲まれた環境でした。祖父は住宅の襖や窓などを組み立てる建具職人で、よく私を現場に遊びに連れていってくれました。すごく優しくて、大好きでした。祖父が様々な材木をつなぎ合わせるのを見ていたので、小さい頃はおもちゃのブロックを組み立てる遊びが好きでした。

外で遊ぶことも好きだったので、友達と海で泳いだり、森に秘密基地を作ったりしていました。秘密基地を作る時は、祖父の真似をして、落ちていた木や枝を縛って家を作ろうとしていました。でも、やってみると全然思った通りにならないんですよね。

習い事では3つ上の兄の影響を受け、4歳でピアノ、小学校3年生でサッカーを始めました。小・中学生時代はとにかくサッカーとピアノの両方に打ち込んでいました。

若くてパワーが有り余っていたこともあり、高校に入ってからはボクシングを始め、20歳まで続けました。始めた理由としては、やったことがなかったので楽しそうと純粋に思ったことと、周囲でやっている人がほとんどいなかったため、個性的でいられると思ったからです。

ミラノ大聖堂が人生を変えた


大学受験で志望学科を決める際は、自然と建築関係の学科に惹かれている自分がいました。建築家になりたいという具体的なイメージはなかったのですが、おそらく小さい頃から祖父の作業場や現場に遊びに行っていたことが影響していたのだと思います。

晴れて、大学の建築工学科に入学しました。しかし実際に授業が始まると、イメージしていた内容とは全く違いました。歴史、電気設備、構造力学などといった専門分野の授業がほとんどで、面白いとは思えませんでした。ただ建築デザインの授業は自分がイメージしていたものを形で表現できるので、本当に面白かったです。

大学2年生のときに、フランスとイタリアの有名な建築を巡る海外研修プログラムがあり、純粋に海外に行けるのが面白そうという軽い気持ちで参加しました。成田からフランクフルト経由でまずミラノに向かい、夜にホテルに到着しました。

チェックインした後に自由時間がありました。ほとんどの学生は長時間移動の疲れからホテルで休んでいたのですが、自分はせっかくなのでミラノ市街を散歩してみようと思い、一人でホテルを出ました。

しばらく建物と建物の間の薄暗い細い道を抜けながら歩き、角を曲がると、視界が開けて、目の前には大きな広場が広がっていました。そこに、ライトアップされたミラノ大聖堂が立っていました。ミラノ大聖堂の圧倒的な存在感に鳥肌が立ちました。建築の持つ力強さ、存在感を全身で感じたんです。その瞬間、将来は建築家になる、という気持ちが芽生えました。人生が変わったような感じがしましたね。

欧州の建築物の凄さを身体で感じた一方で、なぜこれほどまでに凄いと感じるのか、がわからなかったんです。その「なぜ」を知りたくなり、帰国してからは建築の歴史や様式などを猛烈に学び始め、時間があれば国内の有名建築を見に行き、建築に時間を費やしました。

ミラノでの体験から建築家になろうと心を決めたわけですが、建築家として食べていくのは厳しいという話を大学の先生などから聞いていました。思うように仕事にならずにフェードアウトする人や身体を壊してしまう人が多いと言われていたんです。でも、ミラノ大聖堂を目の当たりにして決意した自分は、負けないように頑張ろうと思いました。

大学3年生のとき、イタリアへの1カ月間短期留学プログラムに参加しました。せっかくヨーロッパに行くならと、留学の前後1カ月を使って合計3カ月、ヨーロッパの建築巡りをしました。フランス、ポルトガル、スペイン、イタリア、スイス、ドイツ、オランダ、ベルギーの有名な建築物をたくさん見て周りました。

数多くの街を見た中で一番、パリが圧倒的に良かったです。パリという街の持っている力強さをすごく感じました。市民が街に愛着を持っていて、人・建築物・街がすごく密接な関係にあると感じたんです。喫茶店や教会など、建築物が作る空間に人が集まり、人と人が繋がりコミュニティが生まれる。そういうコミュニティが複数あることで、一つの街を形成している。建築物が生み出す空間こそが、人と街を繋げる役割を果たすと感じました。

パリは歴史も長いし、文化の強い街です。昔から続く歴史や文化の背景があって、その上でパリに住み続け、パリを好きでい続ける人たちがいる、という一連の流れが、すごく心地良くて、気持ち良いとさえ感じました。

大学2年生でミラノ大聖堂を見てから1年間、猛烈に勉強はしましたが、それでも知らないことが多く、勉強不足を再認識しました。しかし今回は、同時に建築の奥深さや面白さを感じることができました。

建築を学ぶために単身フランスへ


ヨーロッパ巡りをした中で、フランス人の友人からお勧めされていたパリの建築大学も見学してきました。すごく雰囲気の良い場所で、なによりパリという街に魅力を感じ始めていたので、その大学院に進学したいと考えるようになりました。

帰国後は、フランスの建築業界に詳しい大学の先生にアドバイスをもらいながら、実際に見てきた建築大学の大学院への進学を目指すことにしました。同時に、英語とフランス語の語学も集中的に勉強し始めました。

学部卒業後、無事に進学することができ、フランスの大学院では、3年間学びました。かなり勉強したので成績が良く、卒業間近になると複数の先生から「うちの建築事務所に来ないか?」というお誘いをいただきました。しかし、先生たちの事務所は大きな事務所ばかりでした。規模が大きいと分業制になってしまい、一人で携われる仕事の範囲がどうしても限られてしまうんです。私は、一人で全体を把握できる規模の仕事がしたいと考えていました。そこで、申し訳ないですが先生たちのお誘いはお断りして、自力でパリ市内にあるそういう仕事ができるような建築事務所を探しました。

雇ってくれる所が見つかり、25歳のとき、建築家としてパリで働き始めました。様々なコンペティションに参加すると同時に、街の診療所や住宅、パリ市内のアパート、店舗の改修などを担当しました。上司と打ち合わせに行き、帰ってきてからクライアントの要望を基に図面を書き起こします。クライアントからOKが出たら、今度は行政や施行業者などの間に入って全体をまとめる役割を担います。

建築家は、関係者全体をまとめる指揮者みたいなものです。もちろん良いデザインができなければ建築家としての根本的な役目は果たせないですが、デザインだけできれば良いわけではないということを学びました。想像していた以上に、打ち合わせや現場での統括力や指導力が求められるのだと実感しました。

働いてみると当然わからないことばかりで、クライアントの要望と自分の思い描いているデザインとの擦り合せが難しいと思いました。反面、とてもやりがいのある仕事だなと感じましたね。

建築事務所の一員として働く一方で、有難いことに知人などから「今度パリ市内で公共施設の改修プロジェクトがあるんだけど、建築デザインを担当してくれない?」といったような形で個人宛ての仕事を依頼されることが多くなりました。

最初は事務所の仕事と個人の仕事を掛け持ちしていたのですが、個人の仕事が増えるにつれて、独立して自分の事務所を開業しようかなと考えるようになりました。まだ働いて2年足らずだったので独立するには早いとは思いつつも、タイミングとしてはチャンスかもしれないと感じ、個人事務所を開きました。

自分が建築デザインを行う際には、なぜそこにその建築物が必要なのか、街や人との関わり合いの中でどういう役割を果たすのか、そこある課題をどう解決し、その場に合った表現ができるのかと考えています。クライアントと対話をしたり、現場まで足を運び、敷地がどんな場所に位置するのか、周辺には何があるのかなど普段なかなか気が付かないような所まで掘り下げたリサーチを行ったりすることで、デザインのヒントに結びつく事が多いです。

建築デザインの中では、特に住まいの設計に興味があります。住まいは人間の動きや身体スケールに伴うデザインが反映されやすく、自分の考えている事を実現しやすい場でもあります。また、人の帰る場所であり、衣食住の全てがあるからです。

人間が生活を営んでいく上で本質的な事が行われる場所である住宅を愛し、生活の営みが少しでも豊かになれば、暮らしの中の幸せを感じ、社会に参加しやすくなるのではないかと考えています。

ヨーロッパの都市は基本的に集合住宅のような住まい群の連なりで成り立っており、街と住まいと人の結びつきが非常に強く感じられます。この連続した横の強い繋がりは、地元の人たちが街や建築物を愛するきっかけになっている気がしています。自分が設計する際はこの横の繋がりが現れるように意識して取り組むようにしています。

地域に根付く建築物を遺し続けたい


現在は、建築事務所studio D architectsの代表として、ベルリンを拠点に、パリや日本などで、住宅や商業施設の改修・新築における建築デザインを行うほか、美術館や公共建築などのコンペティションにも参加しています。

日本には仕事のため、年に4、5回ほど戻っていて、最近では特に地方都市での仕事が増えつつあります。今やっているプロジェクトの一つに、西日本の豪雨で水害に遭ってしまった広島県にある酒屋さんの酒蔵兼住宅プロジェクトがあります。

170年以上続く老舗の酒蔵で、街のシンボルになっていました。地域の人みんなにとって大切な場所になっているからこそ、多くのボランティアの方が復旧作業に駆けつけて来ていました。

すごく愛されている場所だと感じましたし、場所、地域に根付く建築物の価値というものを改めて考えさせられました。この場所はどうしても次世代に残していかなければならない場所だと感じました。

風土や歴史的背景が関わってきますが、ヨーロッパの建築物は長く生き続けます。それに比べると日本の一般的な住宅サイクルは25〜30年と圧倒的に短いですが、私は長く存在することで、街の価値を高めていくような建築を作っていきたいと思っています。いずれは「あの建築物がある街」として街自体の価値も高められるような建築です。

建築物が世の中に長く遺り続けるほど、建築物がその街に住む人や街自体に提供する価値は大きくなっていくと考えています。ヨーロッパはまさに、ものすごく昔からある建築物が存在し続けることで、人と建築物が共同体となり、地域社会を作っています。

現在、日本の地方では、街のシンボルとなり人が集まってコミュニティが生まれるような建築物が少なくなってきていると感じています。人と人を結ぶような建築物があれば、街に活気が出てきて、さらに人が集まるはず。魅力的な街を作り出すような建築物を作っていきたいと思っています。

そして、私が作る建築物が、社会に対してどのような価値を提供できる可能性があるのか試していくと同時に、社会に認められるような建築物を常に挑戦しながら作っていきたいと思います。

2019.01.16

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