震災を乗り越え実感した地域の力。コミュニティを大切したまちづくりを目指して。

【日本経済大学提供】熊本県御船町の町長を務める藤木さん。初当選した翌年の2016年4月、熊本地震が発生。道路が寸断されるなど悪条件の中で藤木さんが見たのは、自主的に助け合う住民の姿でした。「人のつながりに支えられてきた」と話す藤木さんが、地域コミュニティを重視する理由とは。お話を伺いました。

藤木 正幸

ふじき まさゆき|熊本県御船町長
熊本県御船町町長。第一経済大学を卒業後、福岡市内の結婚式場で勤務したのち、御船町へ戻り実家の藤木屋で専務取締役として冠婚葬祭業を行う。2015年、御船町長選挙に初出馬し、当選。

※この記事は、日本経済大学の提供でお送りしました。

人の死を身近に感じて


熊本県御船町で生まれ育ちました。7人家族で、3人兄弟の長男です。実家は明治時代から続く「藤木屋」という店で、冠婚葬祭業を営んでいます。私は小さい頃から、5代目を継ぐものとして扱われてきました。

藤木屋はもともと蒲鉾店を営んでいましたが、様々な物資が集まり取引が盛んな土地柄から、葬具の卸をするようになりました。当時は葬儀屋がなく、地域の人からの声に応えて冠婚葬祭業を始めました。以来、藤木屋は地域に寄り添って営業を続けています。

実家が葬儀屋なので、人の死をたくさん見て育ちました。印象的だったのが、中学生のときに行った交通事故の現場です。事故現場で、ご遺体を見て「被害者がかわいそうだな」と感じました。しかし、葬儀で加害者家族が額を床につけて棺を送る姿を目の当たりにし、「彼らは事故の加害者ではあるけど、被害者家族と同様に苦しんでいる。見方を変えれば彼らも被害者なんだな」と感じたんです。

もちろん、辛いのは事故の被害者です。しかしその一方で、加害者がものすごく苦しんでいる現実があることを知り、衝撃を受けました。事故が起きた時、被害に遭った方の悲しみに注目しがちですが、事故を起こした加害者も後悔して苦しんでいることをしっかり知らなければいけないと思ったんです。物事には両面があって、片面だけを見て判断してはいけないことを学びました。葬儀での加害者家族の姿が目に焼きついて、忘れることはありません。

逃げていた家業が誇りに変わった


高校に進学しても、学業よりも家の手伝いが優先だったので、高校時代はポケベルを持たされて、仕事があれば呼び出されていました。藤木屋のことは先生も知っていたので、ベルが鳴ったら「帰りなさい」と言われましたね。友達と遊んでいても呼び出されたら帰らないといけませんでした。家業があることで嫌な思いをたくさんしましたね。

そのため、高校卒業後は、実家から逃げてどこかの企業に就職しようと思っていました。でも「大学に進学した方がいい」という先生の強い勧めもあり、福岡にある第一経済大学への進学を決め、寮生活を始めました。

経済が専門の大学だったので、入学生はいずれ経営を担うことになる地元の企業の跡取りが多かったです。私は小学校から野球をやっていたので、大学では野球部に入りました。部員にも跡取りが多く、「お前のところは何の仕事やっているの?」などと自然と話が合いました。みんなが家業を継ぐには何を身につけなければならないかを話し合っていたため、家から逃げたいと考えていた私もだんだんと、家を継ぐことに対して責任感が芽生えてきました。

さらに、野球部には合宿時に部員の前で、今の自分や将来の夢などについて、自由なテーマでスピーチする伝統がありました。私はそこで、家業について話すことに決めました。葬儀屋をしていて、ずっと人に伝えたいと思っていたことがあったんです。それは、身近な人が亡くなった時、ご遺体を拭いてあげてほしいということでした。

葬儀屋をする中で私が一番嫌だったのは、人が亡くなった時に家族でさえもご遺体に近付こうとしないことでした。「最後なのに、なんで触っていただけないんだろう、体を拭いてもらえないんだろう」と思っていたんです。だから、「どんな亡くなり方をしていても、最後は体に触って拭いてあげてください。それは亡くなった人のためでもあるけど、自分のためでもあるんです。悔いを残さないために、必ず体を触ってあげてください」とみんなに伝えました。

スピーチを通して、やりたくないと思っていても、家業に対しての思いがある自分に気がつきました。そんな体験をしたこともあって、だんだんと実家が葬儀屋であることが誇りに思えるようになりました。実家から逃げたかった進学前と大きく変わって、家業を継ぐことに対して前向きな気持ちになりましたね。

家業を継ぎ、地域と繋がる


大学3年のとき、野球部で主務を任せられました。主務の仕事を平たく言うと、80人ほどいる後輩のお世話係です。世話をしていく中で、良いチームを作るためには、技能を伸ばすだけでなく、野球をする設備そのものや成長できる環境を整えることが大事だと気がつきました。「ただ世話をするのではなく、チームを、人を育てないといけない」と学びましたね。

主務を担当したことで、マネジメントやチームワークの重要性を強く感じました。一人だけでできることは限られているので、みんなの力をどう生かすかを考えることが大切だと思ったのです。

4年になって就職を考える時期になったときに、野球部の部長から「家業を継ぐなら、まず就職して他の会社を見てきた方がいい」と言われ、福岡にある結婚式場の仕事を紹介されました。卒業に必要な単位は3年で取り終えていたので、4年から就職。大学はゼミにだけ出席するようにして、働きながら無事卒業することができました。

結婚式場では卒業後2年ほど勤務しましたが、24歳の時、実家のある御船町で豪雨災害があり、実家が運営する結婚式場が水没してしまったんです。仕事が楽しくて、熊本へ帰らず働き続けようと思っていたくらいだったのですが、宿命だったのでしょうね。家族を助けるために実家へ帰り、家業を継ぐことにしました。

実家では専務取締役に就任し、寝る間も惜しんで結婚式や葬儀のプロデュースを行いました。顔を出せるところには出し、地域でたくさんのつながりを持ちましたね。観光協会会長、PTA会長などを務め、地域と密接に関わりました。

町民を幸せにするのが、私の使命


地元に戻ってきて25年ほど経ち、御船町町長の改選のタイミングを迎えたとき、地域で接してきた方々から「藤木さんに町長になってほしい」という声を多数いただきました。

もともと「この町をもっとよくしたい」と思っていたので、町長選に立候補する気持ちを家族に伝えたのですが、猛反発を受けました。これまで政治の世界には全く関わって来なかったですし、家業もあるのだから当然といえば当然です。父からは「勘当する!」、妻からは「離婚よ!」と言われるほど。

それでも、これまで25年間を地元で過ごした中でいろいろな人との関わりができ、地域のために働きたいという思いが強くなっていました。私の中には「町民の方々を幸せにしたい」という気持ちがメラメラと湧いており、「町民のために自分はここに存在する」と思っていました。もう、使命感ですよね。

熱意を伝え続けたことで、最終的には家族は私の立候補を理解してくれました。あれだけ反対していた父や妻も街頭に立って頭を下げ応援してくれ、その姿には感動しました。みんなの応援があって、無事当選することができました。

町長になって最初に取り組んだのは、教育の改革でした。町の将来を担うのは子どもたちなので、教育に力を入れようと思ったのです。

都心部と違い、御船町には学習塾がたくさんありません。そこで町が塾講師にお金を払い、希望した生徒に授業をしてもらう「未来塾」という取り組みを行いました。対象は高校受験を控えた中学3年生で、既存の校舎を利用して土曜日や夏休みに勉強を教えました。

未来塾を始めたことで、生徒の成績は上がり、志望校に入れたという報告が増えたので、成果は上々でしたね。また、モデルケースとして、町内にある小学校の一つで、1年生に英語教育を実施しました。本などを読んで聞かせることで、小さいうちから英語に親しみを持ってもらうことが目的です。アンケートをとると、英語に興味を持てたという子どもが増えて、こちらの施策も手応えを感じることができました。

地震で見た「コミュニティの力」


町長になって1年経たずの4月、御船町を震源とした大きな地震がありました。急いで御船町役場に戻ると、私はすぐに救助の陣頭指揮を取り始めました。

その後、もう一度大きな地震が起こりました。最初の揺れよりも強くて、体が宙に浮いた感覚で、テーブルの下に隠れることすらできませんでした。エアコンはドスンと床に落ち、壁は崩れ窓ガラスは割れた状態で、命の危険を感じたほどです。

このような中で、「家が崩れた」「人が埋まっている」といった連絡が次々と役場に入ってきました。冠婚葬祭業で町を回っていたため、職員を現場に向かわせるかを決める時に、道や人のつながりをよく知っていたことが役に立ちましたね。「この道を行けばあの場所にたどり着ける」「あのおばあさんの安否なら、近くの◯◯さんに聞けばいい」と、とっさの判断ができたのです。

この時、私の頭の中にあったのは、「町民の命を救わなければいけない」という使命感でした。役場に残って町民からの電話を取り、3日寝ないで過ごしました。

そんな中、知人の女性から「助けて、父ちゃんが隣ん部屋におるけん助けて」と電話がかかってきました。職員を向かわせたところ、旦那さんは助かったものの、電話をくれた女性は亡くなっていたんです。女性が発した「父ちゃんを助けて」という言葉が耳に残っています。自分の命が危険にさらされている時でも、周りの人間を助けたいという気持ちが人にはあるのだということを強く感じました。

現場は、道路が寸断され混乱していて、私にも警察・消防にもできることは限られていました。その間にも、土砂の下敷きになったり壁やタンスに挟まれたりして身動きが取れず、救助を待つ人がたくさんいました。彼らを助けたのは、近所の人だったんです。

日頃から交流が深いので、隣の家のおじいちゃんが普段寝ている場所を特定することができました。そこから推測して「土砂に埋まっているとしたら、この辺りだろう」などと探ってみたら、おじいちゃんがそこにいて、救出できたということもありました。

もし普段から近所のつながりが希薄だったら、近くに住む人が危機的な状況にあることすら気がつかず、命を落とした人はもっと多かったかもしれません。人的被害を最小限に抑えられたのは、町民同士のつながりがあったから。地域の強いつながりがあったから、震災を乗り切ってこられたのです。

熊本地震で私は、「人は一人で生きていけないし、人を助けられるのは人しかいない」ことを強く感じました。

強いコミュニティを作るために


現在は、町長になって4年目を迎えており、災害からの復興に尽力しています。今も約1500人が仮設住宅で暮らしており、壊れた道路の復旧も道半ばです。私は、町を復興させるために復旧期と復興期の2つのステージに分け、それぞれに4年を費やす施策を進めています。

復旧期は家の再建や道路・農地の整備などにお金をかけて取り組む期間、復興期は町民がこの町に住めてよかったと思えるような「心の復興」に力を入れる期間と捉えています。8年をかけて、町も町民の心も元通り以上にするのが、創造的震災復興のための私の大きなテーマです。

さらに私は、地域のコミュニティを重視したまちづくりをしています。御船町にはコミュニティの力があったから震災を乗り越えられたと感じたので、地域の繋がりを絶やさず、もっと生かしていこうと考えました。

たとえば、仮設住宅のつくり方。通常、仮設住宅は一つのエリアにまとめて建てます。この方が、行政としては管理がしやすいですし、人手も少なくてすむからです。しかし、私は仮設住宅を21の地域にわけて建て、もともとあった隣人同士のつながりを保てるようにしました。震災でコミュニティ力の強さを目の当たりにしたため、コミュニティを壊したくなかったんです。町民は慣れ親しんだ場所に住みながら、仕事や畑に行くことができるので、従来のつながりを持ったまま生活できます。

今後は、地域のつながりを保っていくため、現在85ある行政区を60ほどに減らしたいと考えています。人口の減少に備え、一つの地域に住む町民を増やして、地域で支え合えるようにするためです。高齢の方や赤ちゃんを、地域のみんなが助け合えるようなコミュニティをつくりたいと考えています。

震災を経験して、人のつながりが本当に大切だということを学びました。私自身も人に助けられてここまで来られたと思いますし、自分が経験したことを「人づくり」に還元していきたいと思っています。町長として、町民が「この町に住んでよかった」と思える町をつくっていきたいです。

2018.12.28

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