虚弱体質だった僕が、陸上で全国を目指した話。

「生まれつき虚弱体質で、あまりスポーツができなかった」今の姿からは想像もできないようなことを語りだす、横原さん。10年以上陸上で目標を追いかけ続けたお話や、選手として引退した今、どんなことに力を入れられているのか伺いました。

横原 和真

よこはら かずま|日本スポーツ振興センター勤務
教員免許のほかトレーニング指導士、日本陸連公認コーチ、スポーツ救急手当等多くのスポーツ資格を持つ。
現在、日本スポーツ振興センターで働きながら、自分自身の可能性や選択肢を広げるために様々な活動に取り組んでいる。

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5ヶ月で全国へ


私は鳥取県で男3兄弟の末っ子として生まれました。生まれつき虚弱体質だったため、激しい運動をすることはできませんでした。私とは違い真ん中の兄はスポーツが得意で、長距離走と水泳で県のトップになるほどでした。

兄のようになりたいと思い色々なスポーツに挑戦しましたが、体が弱かったので無茶なことはできませんでしたね。

しかし、何度か手術などもし、小学校高学年になると、徐々に体が強くなり、スポーツを全力でできるようになってきました。

そして中学生になり、兄を超えるために陸上を始めました。最初は長距離をやろうと思ったのですが、全然センスがなくて。ハードルを試してみたら、器用だったからか結構うまくできたんですよ。できたのが面白くて、競技はハードルにしました。

中学3年生になった時、陸上部に2人の新しい先生がきました。2人は対照的で、片や鬼監督でかなり厳しく練習を指導してくれ、片や仏のような監督でいつもモチベーションをあげてくれました。

とにかく兄を超えたい一心で練習に取り組んでいたこと、その2人の先生にしっかりと指導してもらえたこと、体が成長していたことが重なり、中学3年生の時に、県の東部で6番目だった私が、5ヶ月後には全国大会に出場するほどに急成長することができました。

この時から、陸上への熱は一気に上がりましたね。

14番目


高校でも陸上漬けの生活を送り、1年生の時に、国体でまた全国の地に足を運ぶことができました。

この時は正直、全国ではまだ勝てないんじゃないかと思っていたのですが、なんと準決勝に進むことができたんです。決勝に進むには8番までに入らなければいけないのですが、結果は10番目でした。

全国で決勝に出るなんて、今までは夢にも思わなかった世界ですが、現実として手に届く範囲だと実感することができたんです。その実感が湧いてからは夢をかなえるための欲がどんどん湧いてきたんですよね。

練習に対する欲や、生活や食事を改善する欲がどんどん生まれてきて、家族や周りの人もそんな自分を応援してくれるような環境が整ってきました。

しかし、2年生ではスランプに陥りました。自分で決めた目標に対して達成できていないことに、フラストレーションが溜まっていたんです。気持ちが落ちてきて、結果も出ませんでした。

陸上の練習で一番きつい冬のトレーニング時には、3年生になったら絶対に巻き返してやると思い、四六時中練習していましたね。

結果、3年生ではインターハイも国体も出場することができました。しかし、結果は一番良くても国体の準決勝進出、14番目止まり。

全国で決勝に行き、関東の強豪大学に推薦で入学し、オリンピックに出るという夢が打ち砕かれた感じがしました。

結局、そのショックを引きずりながら先生に言われるがままに出願し、落ちれば良いとさえ思っていた地元の国立大学に推薦合格してしまい、関東の強豪校を一般受験することもなく、地元の大学に行くことになりました。

独りよがりなエース


そんな感じで大学に入ったものですから、1年半位はひどい態度でしたね。

部活の仲間や、練習環境、コーチがいないことなど、いろんなことを言い訳にして、ふてくされたような態度をとっていました。体育会の部活なのに金髪でしたし。何のために陸上をやっているのかも分からなかったので、結果も出ませんでした。

しかし、2年生の時、人生初めて肉離れを起こして練習ができない状態になり、間違っていたのは自分だと痛感しました。

いきがっていたけど、一人じゃ何もできない人間だったんですよね。怪我をしてみて、本当に周りの人に頼らなければ生きていけないことに、初めて気づいたんですよ。

あんなに自分はひどい態度をとっていたのに、周りのみんなは暖かく助けてくれて。その時から心を入れ替え、練習への心がけ、生活態度も見直しました。

奇しくも、半年ほど経ったリハビリ明けの大会では、自己ベストを更新することもでき、改めて陸上に火がつきました。また、この頃から自分だけの結果のためじゃなく、チームで上を目指したいと思うようになりましたね。

独りよがりなエースから、チームを引っ張っていく存在に変わったんです。

そして引き続き陸上に賭けるため、大学院にも進学しました。大学3年生の時からは毎年全国大会にも出場したのですが、大学院1年生の大会まで、全国ではすべて予選落ちでした。

そして大学院2年生の時、最後の大会に臨んだ時に、ついに全国大会で決勝に残ることができたんです。9年越しの目標が達成され、人生で初めて自分の競技で嬉し泣きをしました。本当に嬉しかったんです。今まで賭けてきたものが、認められたような気持ちでしたね。あの時の感覚は、言葉じゃ表現できないです。

こころとからだ


大学院を卒業後、実業団チームとして陸上を続けられることになりました。

ただし、県がお金を出しているチームだったので、今までとは責任感が全く違いましたね。とにかく、成果を出さなければと焦る気持ちもありました。

しかし、そんな成果を出したいと思っている「精神」と「身体」がリンクせず、結果を出すことができませんでした。こんな感覚は初めてでした。

プレッシャーが大きく、この頃は陸上が全く楽しいと思えず、正直今までで一番つらい時期でした。人のために頑張ることは好きなのですが、何かが違ったんです。結局、2年で契約を打ち切られることになってしまいました。これが選手としての引退でした。

その後は保健体育の講師の話を頂くことが偶然にもあり、約3年間ほど中学と高校で教師をしました。

最初は先生という仕事にあまり前向きではなかったのですが、「高圧的で厳しい」という体育教師のイメージを覆すべく、生徒を笑わせることに全力投球しました。そうすると、生徒との距離も近づき、どんどん頼られるようになってくるのが面白かったですね。

陸上を教えるのも好きだったので、このまま正規の体育教師になりたいと思い、試験を受けようと考えていたのですが、その年、鳥取県では体育教師を募集していませんでした。

この地域では求められていないということが分かったので、3年で任期を満了した後、先生の選択肢は諦め、昔から憧れていた東京で働くことに決めました。

選択肢が少ない


陸上で全国大会を目指したように、働くからには一番高いレベルの場所で働きたいと思っていました。しかし、自分には陸上しかなかったので、スポーツの仕事ではどんなものがあるか考えた時、今働いている『日本スポーツ振興センター』のことを思い出しました。

一般的にはあまり知られていない組織ですが、国を挙げてスポーツを行う上で必要不可欠な組織なんです。オリンピック関連にかかる業務を始め、オリンピック選手支援、地域スポーツや国のスポーツ環境整備など、日本スポーツの支えとなっている機関で重要な役割を担っています。

東京に来て仕事が決まらない時期もあったのですが、今はここで働くことができています。どうやってスポーツが国を動かしていくのか知れるので、非常に勉強になります。

また、自分は陸上しかやらず、人生の選択肢が狭まっていたことに後悔があったので、個人としては今後の選択肢を増やすような活動に力を入れています。

具体的には、様々なスポーツ関係者の方と交流を持ったり、資格を取ったりしています。

実際にトレーニング指導士、日本陸連公認コーチ、スポーツ救急手当の資格を取りました。資格をとってできることが増えると、「自分にはこんなことができたんだ」という自信が湧いてくるし、色々な角度でスポーツに関われる可能性ができたと感じます。

そうやって増やした選択肢を組み合わせて、将来は新しいことをやってみたいと思っています。具体的なイメージがあるわけではないのですが、自分が関わった人の夢が叶っていくような、そんなことができたら良いと思っています。

自分はエリートでも何でもないただの選手だったし、就職への選択肢もほとんどなかった。だけど自分がありたい姿を想像し、必死に取り組んできました。だから自分のようなエリートでなくても、目指していいところはあるはず。

自分自身の今後の取り組みとしては、まずは形はどうあれ、2020年の東京オリンピックに、自分と関わった人が出場するようなことになってくれたら嬉しいなと思います。

2014.06.19

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