三代目として見つけた、自分の進むべき道。 地域に選ばれ、社員が誇れる会社を目指して。
【トマト銀行提供】岡山県を拠点に、中国・四国地方を中心とした物流サービスを展開する会社で、父の後を継ぎ社長を務める大久保さん。大切にするのは「人」そのものです。社員満足度NO.1の会社づくりを目指すに至った背景とは。お話を伺いました。
大久保泰造
おおくぼ たいぞう|シーアール物流株式会社代表取締役社長
シーアール物流株式会社代表取締役社長。ちるりら保育園理事長。
※この記事はトマト銀行の提供でお送りしました。
前に出ず、2番手で仕切る
岡山県岡山市で、3人兄妹の長男として生まれました。
身体を動かすのが好きで、ゴルフやサッカー、ソフトボールや剣道など、さまざまなスポーツに取り組みました。団体競技ではチームで何か一つのことをする楽しさを、個人競技では自分で判断して動くことのやりがいを感じていました。
小学校中学年になると、スポーツに励む傍ら、父が経営する運送会社を手伝うようになりました。父は、祖父が原型をつくった会社を受け継ぎ、規模を拡大していくつかグループ会社も経営していました。
積み荷を運んだり、トラックの助手席に乗って運送に同行したりしましたね。積極的に手伝いたかったわけではありませんが、手伝えと言われるのを見越して自分からやっていました。父には、門限を守らなかったとき外に立たされたり、田んぼに放り投げられたりしていたので、怒られるのが怖かったんです。
小学校から高校まで、学校や部活動の中では輪の真ん中にいることが多かったです。でも、できるだけ人を引っ張る立場にはなりたくないと思っていました。先頭に立つと、何かを決める時に責任を一身に負わなければいけません。そうすると何かあったとき、決めた人間が批判されるんです。そうなるのが嫌だったので、何をするときも2番手にいて、陰から物事を回していくのが自分のスタイルでした。どうしようもなくなるまでは、表に出ないようにしようと考えていましたね。
岡山へUターン、責任を持って矢面に立つ
高校の先生に勧められて、卒業後は東京の大学に進学しました。長男なので、いずれは父の会社を継ぐかもしれないという思いが漠然とありましたが、どうせ岡山に帰るにしても、一度は東京に行ってみたいと思ったんです。
大学では応援団に入部して活動する一方、やはりスポーツも続けたいと思い、面白そうだと感じたキックボクシングを始めました。ライセンスを取得するほど打ち込み、かなり体力がつきましたね。
夜まで練習してもまだ力が余っていたので、深夜に大きなホテルで配膳のバイトもしました。芸能人がよく来るので面白かったですし、政治家たちが政策や世の中の動きについて話すのを聞くのも興味深かったです。接客ルールやマナーを身につけることで、年上の人とも話ができるようになりました。
卒業後は、バイトの収入がよかったのでこのまま東京に居ようかとも考えたのですが、地元に彼女もいたし、故郷に戻る友達が多かったので、岡山に帰ることにしました。そこで、父が経営する会社のうち、おもに飼料輸送サービスを行う会社に就職しました。ずっと働くつもりはなく、単に経験を積めればいいやという気持ちでしたね。
平社員として入社し、3年ほどは営業所などを回り、運送業の現場を見ました。その後、事業所の立ち上げを任されることになりました。新たにできた飼料製造工場からの運送を担う事業所で、私は工場内での製造から製品の出荷まで、幅広く責任を負う立場になりました。
これまでずっと矢面に立ちたくないと思っていましたが、そうも言っていられません。自分がやらなければいけないんです。製造や出荷に関するトラブルに対応したり、運送を担当したドライバーと届け先の企業とのいざこざを仲裁したり、休む間もなく働きました。家には毎日数時間しか帰りませんでしたね。
それでもやる気が空回りして、商談で行き過ぎた発言をしてしまったり、解決する必要のない事柄に首を突っ込んでしまったり、失敗ばかりでした。余裕がなかったです。やっぱり、前に出すぎるのではなく、一歩下がるくらいが自分にはちょうどいいと感じました。
会社を継ぐ者としてすべきこと
もともと、父の会社で長く働く気はなかったのですが、任せられる仕事が増えて責任感が出てきました。バブルの崩壊で景気も悪化しており、今更ほかの仕事に就くのも無理だなと思いましたね。段々と、父の跡を継ぎ、経営者としてやっていこうという意識が生まれました。
父は農畜産物の運送一本で経営をしていましたが、私は今後、食品の運送が大事になると考えました。農畜産物の運送は、原材料の仕入れから卸売業者、取引業者への卸しまでが業務範囲ですが、食品の運送は、生産者から消費者までの商品の流れを幅広く扱います。取引先が増えますし、毎日人が食べるものなので安定が見込めると思いました。
正直、厳しい父に対して反発心もあったので、父とは違うことをしたいという気持ちもありました。父は一代で会社を伸ばしてきた人なので、ほとんど創業者です。それを継ぐ自分は、父と同じ道をただ進めばいいというのではなく、事業を広げていくべきだと思いました。違う業種にチャレンジすることで、会社の価値をもっと高めたいと考えたんです。
ちょうど分社化が流行っていたので、父と相談して、食品系の会社を分社化することにしました。食品から始まって機械や住宅関連の運送にも手を広げ、数社を立ち上げてその社長に就きました。
しかし、組織の形がしっかりできないまま売り上げを急いでしまい、そのうちの1つを潰さざるをえない状況になってしまいました。売り上げ主導型で経営していたので、売り上げが伸びると社員の給料も増やしていたんですが、それを引っ張りすぎて社員に給料を払えなくなってしまったんです。
落ち込みました。自分の力量や経験が足りないせいで、会社を潰してしまった。心臓が一部死んでしまったようなショックを受けました。
しかし、私にはほかにも会社がありましたし、潰した会社で働いていた社員を、ほかの会社で雇用していく必要がありました。そこで完全に折れてしまうわけにはいかなかったんです。なんとか自分を奮い立たせ、興す何倍ものパワーを使って会社を閉じました。
辛い経験でしたが、自分にとって大きなものになりました。失敗を通して、突き進むだけだった自分に足りないものが見えてきたんです。
会社がうまくいかなかった原因は、自分の経験や見識、情報不足。会社の経営には、経験値が一番必要だということがよくわかりました。そこで、目上の人の意見を積極的に聞くようにし、経営者との交流も大切にするようになりました。結果として、食品をメインにした事業を軌道に乗せることができました。
みんなで一緒に走る会社へ
45歳になると、分社化した会社の社長を務める一方で父の会社の専務になり、次期社長に就く準備を始めました。
父は、先頭に立って走り、社員を引っ張っていくスタイルで会社を経営してきました。しかし私は幼いころから先頭に立つのが好きなタイプではありません。私の理想は、一歩下がって社員を見守り、自分がいなくても会社が回る状態をつくることでした。
そのためにはどうすればいいか。考えた結果、「理念経営」を打ち出すことにしました。これまではなかった社是やビジョンをつくり、それに向かって社員一丸となって向かっていける会社にしようと思ったんです。
社員が気持ちよく働けないと、会社は回っていきません。経営者と社員は立場が違うけれど、共有できる会社の理念をつくることで、一緒に走っていけると考えました。一人ひとり価値観は違うかもしれないけれど、同じ方向に向かって進んでいれば、その違いも多少は心地よいものに感じられるはず。そうであれば私のすべきことは、共通の基盤とベクトルを整備して、みんなが走る方向を定めることです。それを実現するために、理念をつくっていこうと思いました。
その志を持って2012年、グループ全体を統括するシーアール物流株式会社の社長に就任しました。
何よりも「人」が大事
現在は父の跡を継ぎ、シーアール物流株式会社の社長として経営に携わっています。以前働いていた中国糧飼輸送や立ち上げた子会社はグループ会社にして、家族で経営を担っています。
基本理念は、「物流事業を通じて社員の成長と会社の発展を図り、社会に貢献する幸せの総和こそ企業価値とする」ことです。人口減少が進む中、会社が続き、発展するために必要なのは「人」。これに尽きます。同じ方向に向かって走る社員を大切にするために、社員満足度ナンバーワン企業を目指しています。
そのために力を入れているのが、働きやすい環境づくり。まず採用を担当する委員会をつくり、採用段階で会社の理念などを社外に向けてしっかり発信できるようにしています。この取り組みのおかげもあり、就職活動のサイトでは多くの就活生に弊社のページを見てもらうことができ、応募の数も増えました。
次に社内の環境整備です。せっかく入社してもらっても、すぐに辞めるような会社では意味がない。社員の定着化を図るための委員会もつくり、社内の働き方の制度設計をしています。たとえば、東京のベンチャー企業に学び、女性が長く働けるよう支援する制度を導入しています。常に情報を集め、良いものがあれば積極的に取り入れますね。
さらに、社員からの意見も重要。社員の意見をくみ上げるために、「働きやすい環境づくり委員会」というものもつくりました。働き方に関する小さな意見を拾い上げて、よりよい環境づくりを進めてくれています。
これらの委員会は事務局が管理していて、毎回構成メンバーを変えて、いろいろな社員から意見を聞くようにしています。すべての委員会にある程度の決定権があるので、より意見が組織に反映されやすいと思いますね。
たとえば、働きやすい環境づくり委員会の中から出てきた意見を受けて、2017年に企業主導型の保育園をつくりました。もともと岡山は待機児童が全国で2番目に多い県ということもあり、地域の課題解決にもなればと考え実現させました。反響が大きく、入園希望者も多かったため、徐々に数を増やしていこうと思っています。
岡山では過疎化が進んでおり、人口減は避けられません。しかしその中でも、人を大切に経営することで、社員が家族に誇れる、地域に選ばれる会社にしていきたいです。
2018.06.08