プロ野球選手になる夢を断たれ、試行錯誤の末見つけた、人に寄り添う生き方。
【株式会社LifeTie提供】誰にでも平等に訪れる死。悲しみに暮れるご遺族の力になるために、故人の身の回りの整理をおこなう株式会社LifeTieを立ち上げた岩本さん。プロを目指して野球に専念していた岩本さんが人の死に向き合うようになったきっかけはなんだったのでしょうか。お話を伺いました。
岩本大輝
いわもと だいき|遺品整理会社代表取締役
遺品整理を通して、残された人たちの力になりたいと、2018年1月11日株式会社LifeTieを創業。自身の宝石鑑定技術を活かし、査定から清掃まで一貫したサービスを提供している。
※この記事は株式会社LifeTieの提供でお届けしました。
母の勧めで、プロ野球選手を目指す
神奈川県川崎市に生まれました。2歳のときに両親が離婚し飲食店を経営していた母親に引き取られることになりました。一心に愛情を注いでくれたので、父親がいないことの寂しさを感じたことはありません。父親と母親の両方の役を母が担ってくれていた感覚です。そんな母が、あるとき、お店に来るお客さんから「スポーツをするなら、体全身を使う野球がいい」という話を聞き、私に勧めてきました。
勧められるがまま、小学生になると野球を始め3、4年生からは試合に出られるようになり楽しくなってきました。高学年になると、連合チームに選抜され、優勝。初めてプロを意識するようになりました。中学でも、リーグ内でそこそこ強かった硬式野球のクラブチームに所属し、練習に励みました。
卒業が近づくと5、6校からスカウトが来ました。よく甲子園で名前を見るような強豪校ばかりでしたが、その中から山形県の羽黒高校に行くことにしました。自分とプレイスタイルが似ていて、憧れていたブラジル人選手が所属しており、何か技術を盗めるのではないかと思ったからです。私のポジションは外野で、打順は一番。足が速く、中学生のときに出場した川崎陸上大会で200メートル走3位にランクインしました。実家から離れて寮で暮らすことになりますが、なんとか母を説得することができました。
ある程度覚悟はしていましたが、実際に行ってみると思っていたよりも何もない場所でした。山の真下にある高校で、寮から市内までスクールバスで30分。正直最初は「なんでこんなところに来ちゃったんだろう」と思いましたね。
同じ寮に住むチームメイトも全国から来ていました。みんな似た境遇だったこともありすぐに打ち解け、家族みたいな関係になりました。監督はアメリカ人で、プレイスタイルもアメリカ式。体をつくるためにと、現地でプロテインを買ってきてみんなに配ったりしていました。また、実力主義で、上手ければ年次は関係なく試合に出すという教育方針だったため、私は2年生のうちから試合に出るようになりました。部としては、10年連続で地区予選の決勝に行っていましたが、いつもあと一歩のところで敗退し、結局、私が在学中は甲子園に行くことは叶いませんでした。
甲子園に出場できなかったことで、なんだか燃え尽きてしまい、このタイミングで一旦野球をやめて働こうかと考えました。実家を離れ、行きたい高校に行かせてもらったし、そろそろ地元に帰って母を支えたい。7校くらいの大学から来ていたオファーも全部断るつもりでした。しかし、当の母から「もっと野球をしている姿が見たい」と泣きつかれ、それならもう一度プロを目指してやろうと大学へ行く決心しました。また、野球を続けるにしろ辞めるにしろ、大学は卒業してほしいというのが母の教育方針でした。
故障による挫折
大学はプロの選手が何人も輩出されているリーグに所属する学校を選びました。そこで活躍すればスカウトの目に止まり、プロになれる可能性があると思ったからです。そこでも1年目からメンバー入りし活躍しました。しかし、和気藹々としたチームで、他のチームと比べてそこまでレベルは高くなかったです。
大学2年生になり、これから本格的に活躍して、スカウトにアピールしなければと思っていた矢先、もともと持病として持っていた腰のヘルニアが悪化。「このままでは野球を続けられない」と主治医の先生に言われました。日本代表選手も診ている先生でその診断に疑う余地はありませんでした。
めちゃめちゃ落ち込みましたね。野球が好きで、もっとやりたかったですし。私は野球に生きてきた人間なんで、野球しかなかったんです。人生の半分以上を野球で過ごしてきていたので。もし、手術するとなった場合、1年半はリハビリにかかり、野球ができるようになるのは4年生になってから。スカウトにアピールをする機会がなく引退することになり、プロになる目はほぼありません。
ならば、在学中に勉強をした方が将来のためになるのではないかと思いました。また、このまま無理して続けてもまたいつ体を壊してしまうかわかりません。下手すれば日常生活に支障を及ぼすような障害を抱えてしまう可能性すらあります。そこで意を決して監督に、「野球部を辞めさせてください」と願い出ました。半年ほど留保されましたが、医師からの診断書が決め手となり、退部を認めてもらえました。
退部してからしばらくは、これまで野球漬けの毎日の中で、我慢してきた分を取り戻すかのように遊びました。ただ、半年ほどたった後、このままじゃダメだ、何か新しく燃えられるものが欲しいと思うようになりました。そんなとき、たまたま知り合いから役者のオーディションを受けに来ないかと誘われました。試しに行ってみると合格し、養成所に通い始めることになりました。しばらくすると映画にも出られるようになって、稽古している時間も含め、楽しいと思えるようになりました。
しかし、華やかに見えていた世界も、裏側を知れば知るほど、実際には存在しないフィクションの世界をつくっていることにむなしさを感じるようになりました。また、汚い金が行き交いする現場も目の当たりにし、業界に対して幻滅。1年半でやめてしまいました。
最愛の祖父の死
大学卒業間近になって、何を目指そうかと改めて考えたとき、経営者になりたいなと思いました。母親も含めて、親戚に自分で事業をやっている人が多くいたため、経営者という存在を身近に感じていたからです。だから大学でも経営にかかわる授業を多く取るようにしていました。ただ、今の自分のまま、いきなり経営者として成功できるとは思えなかったので、まずはどんな商品でも売れるスキルを身につけようと営業職を軸に就活をしました。そんなとき、たまたま高校の友達がIT系の会社の営業に転職するとういう話を聞きました。有名な会社でしたし、業績的にも伸びていたので、自分もエントリーすることにしました。
3回ほどあった面接を順調に通過し、いよいよ最終面接が翌日に迫った日の夜、祖父が危ない状態だと病院から連絡が入りました。父親のいなかった私にとって、昔からよく遊んでもらっていた祖父の存在は大きく、母親に次いで大好きな存在でした。もともと危ない状態で、入院していたのですが、夜中に病院から「危険な状態です」と緊急連絡が来ました。急いで駆けつけ、最初に病院に到着した私は、祖父にまだ意識があるときに立ち会うことができました。しかし他の家族が来たときにはもう昏睡状態で、翌朝、息を引き取りました。私は悲しみでいっぱいになり、面接のことなど考えられる状態ではありませんでした。
面接には行かないつもりでしたが家族から反対され、大きく遅刻をすることになりますが、行くだけ行ってみることにしました。面接会場に向かう電車の中で、自分以外の家族は祖父の側についていてあげれるのに、どうして私だけついていてあげられないのだろうと絶望感を感じていました。家に帰っても悲しみは晴れず、祖父の遺体が安置されている部屋には入ることができず、バスタブで2時間泣いていました。それから2年程祖父のことが忘れられず、ずっと心の中でモヤモヤしたものを抱えながら生きていました。
結局、大遅刻していった面接では、採用担当の方に遅れた理由を説明すると、選考を受けることができ、そのまま内定をいただくことができました。
社内で売上1位の営業マンに
入社した会社は営業3名、テレアポ担当が5名と小規模な会社ながら、そのサービスが革新的だと話題になり、ニュース番組で取り上げられたこともあります。おこなっていたサービスは、幼稚園や保育園を対象に親や職員に対して一斉にメールを送信できるシステムの提供で、その仕組みを活かして、イベント開催時にカメラマンの手配から、出来上がった写真を自宅まで届けることまで一貫して行うサービスを提供したりしていました。私はテレアポから初めましたが、すぐに社内で1番の売上を上げるようになりました。
入社して4ヶ月ほど経ったとき、千葉エリアの担当を一人で任されるようになりました。しかしそのエリアは、自社のツールが全く使われておらず、ご挨拶に行っても「なんの会社だっけ?」と言われる始末。1分話すことも難しく、手ぶらで帰っては怒られるという毎日でした。
悔しかったので、どうすれば売上を上げられるのか必死に考えました。とにかくまずは信頼してもらえなければ話にならないと思い、趣味の話などの世間話をして、施設の園長先生や職員さんに気に入ってもらえるように努めました。そんななか、とあるお客さんから、「プリンターのカードリッチを替えないといけないんだけど、安いの知らない?」と聞かれました。チャンスだと思い、調べまくって、もともと3000円くらいだったものを、1000円近く安い値段で見つけ、提案しました。期待に応えようと必死で調べた姿勢を気に入っていただけ、信頼してもらえるようになりました。サイトの制作や物販に関して相談してもらえるようになりました。
できることを積み重ね、徐々に信頼を勝ち取ることで、営業売上はまたしても社内トップになりました。営業のやり方がわかってくると、入社前から考えていた目標を思い出し、退職して独立に向けて準備することを決意しました。
独立へ向けて試行錯誤
2ヶ月間くらいはやりたい事業を、調べる期間にしました。同時に、前職で自分が担当していたお客さんとのつながりを活かして物販を行っていました。しかし、いくら頑張ってもお金は貯まらず、この仕事は続けられないなと思っていました。
あれこれと模索しているとき、さまざまな保険会社から「営業マンとしてウチで働かないか」とスカウトが来るようになりました。私は保険の営業をやる気はなかったのですが、そのうちの、とある一人の営業マンに他の人とは違う印象を受け、惹かれました。その方は相手の立場に立つことができ、尊敬のできる人柄でした。お互いの立場は関係なく個人的に相談に乗ってもらうようになり、起業を考えていることを話すと、いろんな社長さんを紹介してもらいました。
ご紹介いただいた会社のうちの一つに葬儀会社がありました。私は葬儀が終わった後の遺族のアフターフォローとして入らせていただき、ご自宅に伺ってニーズをヒアリングし、必要な知識を持った専門家を紹介するという業務を任せてもらうようになりました。また、持ち主が亡くなった不動産を利用したビジネスモデルをつくって欲しいと依頼され、知り合いの賃貸会社と連携し、不要な物件を売却するシステムをつくりました。
また、同じ保険会社の営業マンから、営業スキルを活かして働かないかと、今度は宝石を取り扱っている会社を紹介してもらいました。紹介された会社は完全歩合で、販売した金額の50%が手元入ってきました。働けば働くだけ稼げたので、どんどん仕事が面白くなり、もし宝石の鑑定が自分でできれば、この分野で独立できるなと考えるようになり、2年ほど勤めた後、査定技術を身につけ退職しました。
独立後は、お付き合いのある会社から仕事が回ってくるような仕組みをつくりたいと考えました。以前、葬儀会社と一緒に仕事をしていた関係でどのお宅にも使われていない宝石が眠っていることを知っており、価値がないものだと思って捨ててしまうご遺族の方が多いことが分かっていました。そこで葬儀会社に相談をしたところタイアップを組んで仕事をするようになりました。
故人と遺族を繋ぐサービスを
仕事が回るようになり、需要があることはわかりましたが、お客様のニーズを考えた時、宝石の鑑定だけではなく、もっと幅広く遺品整理ができないかと思うようになりました。遠くに住んでいるご遺族が、整理や手続きに大変な負担がかかっていたからです。私なら鑑定の技術があり、葬儀会社や司法書士、不動産会社などとつながりもあるため、いろんな業者に連絡し、相談する負担を軽減できると考えました。
さらに、多くのご家族の悲しみの場面に立ち会う機会が増え、祖父の死で自分が感じた悲しみや大好きな母親が、もし亡くなったらどんな気持ちになるだろうかと考えるようになりました。そこで、整理を通して、残された人たちの力になりたいと思うようになり、2018年1月11日株式会社LifeTieを創業しました。
LifeTieという名前には、生命を繋ぐという意味があります。遺品の整理を通じて故人と遺族をつなぎ合わせてあげたいという思いを込めています。サービスの内容としては、まだご本人が元気なうちから身の回りのものについて整理していく生前整理から、遺品・古物の査定、買取、故人がお住まいだった不動産の売却や、場合によってはクリーニングや解体なども行います。
遺品の整理中、たとえば当時の故人を写した写真がたくさん出てきたりします。それらを全部ほしいと言う方もいれば、もういらないから処分してくれという方もいらっしゃいます。そのどちらの選択でも、間違いではないと思います。ただ、おそらく故人は色々な思いがあって写真を撮影していますし、残していたと思うのです。もしかしたらいつか家族に見てほしいと思っていたかもしれません。
当たり前ですが、亡くなった本人はもう話すことはできません。だからこそ、唯一最後に私たちが、故人が残したものを整理することで、想いを伝えることができると思っています。それが遺品整理のサービスを行っている一番のモチベーションで、会社としても大切にしている考え方です。
今は自身の強みを生かしてサービスを展開していますが、今後はエンディング業界にこだわらず、もっと違う分野でも今持っているノウハウやつながりを活かして、事業を展開させていきたいです。
2018.05.14