神奈川県川崎市に生まれました。2歳のときに両親が離婚し飲食店を経営していた母親に引き取られることになりました。一心に愛情を注いでくれたので、父親がいないことの寂しさを感じたことはありません。父親と母親の両方の役を母が担ってくれていた感覚です。そんな母が、あるとき、お店に来るお客さんから「スポーツをするなら、体全身を使う野球がいい」という話を聞き、私に勧めてきました。

勧められるがまま、小学生になると野球を始め3、4年生からは試合に出られるようになり楽しくなってきました。高学年になると、連合チームに選抜され、優勝。初めてプロを意識するようになりました。中学でも、リーグ内でそこそこ強かった硬式野球のクラブチームに所属し、練習に励みました。

卒業が近づくと5、6校からスカウトが来ました。よく甲子園で名前を見るような強豪校ばかりでしたが、その中から山形県の羽黒高校に行くことにしました。自分とプレイスタイルが似ていて、憧れていたブラジル人選手が所属しており、何か技術を盗めるのではないかと思ったからです。私のポジションは外野で、打順は一番。足が速く、中学生のときに出場した川崎陸上大会で200メートル走3位にランクインしました。実家から離れて寮で暮らすことになりますが、なんとか母を説得することができました。

ある程度覚悟はしていましたが、実際に行ってみると思っていたよりも何もない場所でした。山の真下にある高校で、寮から市内までスクールバスで30分。正直最初は「なんでこんなところに来ちゃったんだろう」と思いましたね。

同じ寮に住むチームメイトも全国から来ていました。みんな似た境遇だったこともありすぐに打ち解け、家族みたいな関係になりました。監督はアメリカ人で、プレイスタイルもアメリカ式。体をつくるためにと、現地でプロテインを買ってきてみんなに配ったりしていました。また、実力主義で、上手ければ年次は関係なく試合に出すという教育方針だったため、私は2年生のうちから試合に出るようになりました。部としては、10年連続で地区予選の決勝に行っていましたが、いつもあと一歩のところで敗退し、結局、私が在学中は甲子園に行くことは叶いませんでした。

甲子園に出場できなかったことで、なんだか燃え尽きてしまい、このタイミングで一旦野球をやめて働こうかと考えました。実家を離れ、行きたい高校に行かせてもらったし、そろそろ地元に帰って母を支えたい。7校くらいの大学から来ていたオファーも全部断るつもりでした。しかし、当の母から「もっと野球をしている姿が見たい」と泣きつかれ、それならもう一度プロを目指してやろうと大学へ行く決心しました。また、野球を続けるにしろ辞めるにしろ、大学は卒業してほしいというのが母の教育方針でした。